【団塊ひとり】テレビ朝日は「転向」したのか。

 最近の一部メディア、特にテレビ朝日系列の報道番組に「変化」が出ているという記事が目立つようになった。報道姿勢が精彩を欠いているというのだ。例えば水島宏明氏は「東洋経済オンライン」の記事で次のように述べている。

 「テレビ朝日系列の『報道ステーション』および『報道ステーションサンデー』の姿勢が以前とかなり異なっていることに気がついた。」憲法改正に向けた日程まで出されている現状に対して、「精彩を欠いている。というか、熱意が伝わってこない。」と述べている。

 さらに、水島氏は各方面からの様々な、特に政府筋からの批判を受けて「テレ朝は従来と違って、正面からの政権批判を避けるようになったのではないか」と「率直な印象」を述べている。同感だ。古賀発言によって政府・自民党に「正々堂々と圧力をかける口実を与えてしまった」ことが原因だ、とするのも同意できる。

 視聴率は5%前後を変動するテレビ朝日系列の「モーニングバード」の木曜日は、玉川徹氏の「そもそも総研」という番組のある日だ。ある意味テレビ朝日の「クローズアップ現代」的な番組で、私はそれなりに注目してきた。立場は違いこそすれ、時々よい番組作りをするので、たまには共感するときもあった。が、最近の原発や対中国問題や政府批判においては、暴走気味になってきて、もはや報道なのかアジッているのかわからなくなってきた印象が強かった。

 が、今朝の番組を見て驚いた。「無人島で快適な自給自足は可能なのか」というタイトルだ。そして内容はあるタレントが購入した無人島での、自給自足生活を紹介している。今までの挑戦的な日本批判、政府批判はどこにも見られなかった。最も最後に日本も、タレントの「無人島」と同じ島国だと強調していたので、原発がなくても日本は自給自足できることを、証明するつもりだったのかもしれない。もちろん、一人の自給生活と、様々な環境の下で生活する1億人を超える国民とを同じ次元ではかれるわけがない。それを平気で押し通すのがこの番組の神髄だとしても、やはり説得力は薄すぎる。

 さて、水島氏はさらにテレビ朝日が「コメンテーター室(仮称)」を設置して、「コメンテーターと局側との意思疎通を強化していく」ことに批判的だ。政府の批判に対して自己規制をしたと同じであり、「報道機関としての牙を抜かれてしまったこと」が問題だとして指摘する。これも当たり前のことで、あれしきの「弾圧」で「屈していたら」ジャーナリズムの矜恃が微塵も感じられない。テレビ朝日の姿勢は報道の自殺行為だ。反省と自己規制とは全く別物のはずだ。
 が、私はテレビ朝日朝日新聞新聞に対して、水島氏は少し買いかぶっていたのではないかと軽い驚きを感じている。戦前あれ程戦争を賛美し、国民を死に追いやった戦争を美化してきた朝日新聞大本営発表を批判もなく垂れ流してきた朝日新聞だ。もちろん朝日新聞だけではなく戦前の一時期、日本のマスコミはすべて戦争遂行のための宣伝機関に成り下がっていた。

 ところが表面は政府の忠実な「御用新聞」、もっともその裏でソビエトと通じ、スパイゾルゲに情報を売り渡していたのだから、とんでもない組織だ。その朝日新聞が8月15日を境に突然「民主的な報道機関」に生まれ変わった。そして日本政府を見限った朝日新聞は、以後は占領軍の忠犬になり、、当時は日本無力化の象徴であった「憲法9条」の番人となりそれは今でも変わってはいない。朝日新聞は一見「反米」のポーズをとりながら、実は占領軍の思想を今もまじめに受け継いでいる守旧派だ。そして時代の変化を見て戦争賛美者から「軍国主義者」を追求する側に回った。「変節」は朝日新聞の特技とも言える。もちろん朝日新聞だけではないのだが。

 戦前の行動を見る限り、日本の報道機関の多くは、自分の命と引き替えに自己主張しようと考える人間は少ない。自分のことは棚に上げて他人ばかりを批判する。そして少し脅かせばすぐ人の言いなりになってしまう。実に情けない。

 大阪では橋下市長や安倍総理を「独裁者」として、「攻撃」する。戦後生まれの日本人である私は当然「本当の独裁者」や「独裁国家」というものを知らない。が、ヒットラー毛沢東スターリンなどの本当の独裁者が行った圧政はよくわかる。対立者が仮に橋下市長や安倍総理に「独裁者的」な要素を感じても、それは「独裁」というよりも「強い指導力」と言い換えるべき性質のものだ。

 橋下氏も安倍首相も特定の民族を殲滅するためのゲットーは作ってはいない。韓国や中国のように政敵や記者を不当逮捕したり暗殺したりもしない。それでも両者を独裁者呼ばわりするのなら、彼らを選挙で選んだ国民を愚弄することになる。

 公共のテレビを使った言論の爆弾テロのような古賀発言は問題である。そして法律に触れる行為をしたもの、それを公然と許したものに対して、その理由を質す行為そのものは弾圧とはいえない。マスコミは、治外法権の世界に生きているわけではないのだから。しかし、もしそれを弾圧と思うのならば社運をかけて会社は記者を守ればいい。徹底して政府に抗議してゆけば良い。そのことで干されたり、職を失ったりしても、それはジャーナリストにとって勲章になるはずだ。しかし、それさえも出来ず自らの保身のみを考えるのなら、さっさとジャーナリストの看板を下ろすことだ。

 だが、朝日新聞テレビ朝日に変節の兆候が見え始めたことは、彼らが世間の変化を鋭く察知する「勘」を持っていることを実証する。だから、70年前、朝日新聞が見事に変節に成功したように、新しい時代に「生まれ変わろう」と決意したのだとしたら、私は大歓迎だ。