【団塊ひとり】「可愛い花」ザ・ピーナツの音楽

団塊ひとり】「可愛い花」ザ・ピーナツの音楽
 父が音楽好きだったおかげで、私も小さい頃からいろいろな音楽を聴いていた。全く覚えてはいないのだが、幼稚園に行く前の私のお好みの曲は、李香蘭山口淑子)の「夜来香」だったそうだ。団塊一期生の幼年時代だから、もちろんレコードは78回転のSPである。

 当時は蓄音機と呼ばれていた機器にレコードを置き、聴くのであるが、家にある蓄音機はあまり上等のものではなかったのか、動くブリキ人形みたいに手でネジを回さなければ動かない代物だった。たぶん巻いた分量だけ、機械仕掛けで音楽が鳴る仕組みになっていたのだろう。だから小さい私は扱うことが出来ない。何度も、親の手を煩わせて親を困らせていたらしい。

 家にあるレコードはほとんどがクラッシックだった。今でも覚えているがベートーベンの第九は、ワインガルトナー指揮で、確か10枚近くある代物だった。片面が10分以内で終了するため、常にレコード盤をひっくり返した記憶がある。が、今から思えば貴重なレコードもあり、「ボレロ」などは作曲者自身の指揮だったと記憶している。「運命」や「新世界」の指揮者は、記憶に間違いが無ければR・シュトラウスだった。

 やがてLPの時代が訪れ、中学校になって初めて自分で購入したレコードが、ベートーベンの「田園」であり、ポピュラーではザ・ピーナッツだった。最初のピーナッツのレコードは1959年発売の「可愛いピーナッツ」というタイトルの25センチのLP盤(モノラル)だった。定価1000円とある。
それから引退するまでピーナッツの歌声に魅了されていた。生活に追われながらも金を貯めては30センチのレコードを購入し、それらは今も大切に持っている。

 ピーナッツはデビュー曲の「可愛い花」や「ウナ・セラ・ディ東京」「恋のバカンス」「恋のフーガ
など多くのヒット作を持っているが、私は、あまりヒットしなかった「愛は永遠に」という曲が大好きだった。(岩谷時子・作詞 宮川泰・作曲)ピーナッツの清純な歌声が、歌の世界にぴったりで大好きだった。

あの空の向こうには 恋人の森が
愛しては 愛された 光る思い出が
旅行く日の さみしさ 忘れさせた恋
覚えていて? ふたりの初めてのくちづけ
あの夜に燃えた頬 夕焼けが赤いよ

この鉱山の夜明けには 生きる歓びが
あの人と向き合えば あふれる言葉が
草を巻いた指輪を 交わしあった恋
覚えていて? 涙はわけあう愛の約束
泣かないでとこしえに この空は青いよ

 今から思えば、かなり少女趣味がすぎるような気がするが、当時の私はこの曲をくり返し聞いていた。今のようにリピート機能など無い時代であるから、曲が終わるたびにレコード針でレコードを傷つけぬように、手でそっと曲の始めに移動することを繰り返した。今の若い人には何の事かわからないだろう楽しみ方だ。

 「愛は永遠に」という曲では「草を巻いた指輪」という言葉が大好きで、そのような恋にあこがれていた。が、現実は厳しい。当時、秘めていた私の「初恋」はもろくも崩れ、大人になった私は結局「見合い」の末、結婚した。結婚式の時に交わした「指輪」は、結局一度もはめず、今どこにあるかさえわからない。何が「愛は永遠に」だ。

 最近昭和40年前後の歌手の曲を聴くようになった。特にビートルズもピーナッツも私には、今もなおリアルタイムの音楽だ。世間からは、ずれているのかも知れないが、ピーナッツはこれからも私の中で永遠に生き続ける。

Sekoi舛添東京都知事と平安時代のGoyoku国守(国司)


 個人的な事情で一年以上中断していたブログを再開します。よろしくお願いします。団塊ひとり


 舛添東京都知事平安時代の国守

 英語になった日本語は少なくはない。sushi、tempura、sakeはいうにおよばず、zen、yugen、bushido、samurai、kamikazeという「古典的」なものからmanga、otakukawaiiなどのサブカルチャーまで、いまや多くの日本語が英語圏で認識されている。最近はそれに「sekoi」が加わりそうである

 一六日の「時事通信」は、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)の記事を引用して、次のように述べている。

タイムズ紙は、舛添氏が「たった数ドルの漫画本」などを政治資金で購入していたと説明。同氏を「あまりにもせこ過ぎる」と批判した自民党の神林茂都議の発言を引用し、「今回のエピソードを言い表すのに最も頻繁に使われた言葉は恐らく『せこい』だろう」と指摘した。

 その上で「彼が大金を盗んだのではなく、温泉旅行のための出費で少しずつ納税者や献金した人々に損害を与えたことが(都民の)いら立ちを一層増したようだ」と論評した。
              (時事通信) 

 平安時代において東京都知事に相当する役職は何だろう。都の中央にいて、しかも中央政権から独立しながら、一部それを凌駕する権力を持つ役職を私は見つけることが出来なかった。あえて例えるなら、国守、国司、受領だろうか。が、それらはいずれも地方官である。それに対して、大きな権限を持つ東京都知事を、ただの地方官と呼ぶことは出来ない。

 国守について記した面白い本がある。

「国守はどれだけもうかったか?」

 古代日本の行政区画である「国」は全部で六六ある。それぞれの国に今の県知事に相当する「国守」(「受領」ともいう)が派遣されていた。たとえば、国名を冠して「紀伊守」と作品に出てくる登場人物はそれである。国守は、地方官にすぎないが、広大な邸が無償で提供され、その気になれば税務署・警察署・截判所』軍隊を動かせるぐらいの絶大な権限も持っていた。

 収入面も抜群である。国守は現在の金額にするといくら稼げたか。国にも「大・上・中・下」の四つに格付けがあり、それに応して実収入に差はでるが、だいたい年収一四〇〇万〜二六〇〇万円は下らなかったとの試算がある。この金額は、さまざまな物資や労働力と、お米の換算量が当時は定まっていたから、国守の収入(衣服など)を全部米に見積もり、現在の米価をかけるという方法で計算した場合の金額である。

 最低保証額の一四〇〇万円の内訳は、まず位階に応じた基本給(位田)が九〇〇万円弱、官職による管理職手当(職田)の上乗せがだいたい一八〇万円。それにボーーナス(季禄)一〇〇万円が年二回支給され、説明は省くが、この他に月料・位禄などの諸手当がつく。ちなみに、これらからは所得税は引かれない。

 この莫大な収入を求め、任官をめぐる激しい競争が行われた。国守は「除目」という任命の儀式で決まった。「除目」は、春(正月)と秋の二回で、地方官の任免は春が恒例である。「除目」が近づくと、「申文」と呼ばれる、いわゆる自己推薦文を提出する者も多くいた。提出された「申文」は、不備や嘘がないかをチェックされ、討議される。その結果、首尾よく任命されると、任地に赴き莫大な富を手にすることができたのだ。

 『枕草子』には「除目」に関する話題が複数回でてくる。「正月一日は」(三段)では、任官の口利きを得ようと必死になって宮廷を駆けずり回る老人の姿が描かれる。また、旨味のある国守に就けた者を「いかにも得意顔なことですわ」と評す章段もある(一七八段)。一方。期待も空しく国守になれなかった様子を『興ざめなもの』のひとつにあげている(二三段)。その悲壮感漂う邸の雰囲気はお通夜のようだ。国守になれるかどうかが、当時の中・下級賢族にとって、いかに切実なものであったかを伝えている。
(「誰も書かなかった清少納言と平安貴族の謎」一六九頁〜(川村裕子・著)中経出版

 以上を勘案すると現代の平均的な知事と平安時代の国守の、公的に受け取る給料の額は、それほどの開きがないようである。しかし、少しでも社会経験のある人ならば、建前と現実との間に大きな乖離があることを知っているはずだ。特に政治家は表面に出ない金を自由に扱うことが出来る。それは所属する機関が大きいほど、自由に扱える金額も膨らんで行く。それは、民主的な手続きに基づく選挙によって選ばれる現代の知事も、平安時代の国守も違いはないようである。

 六月一九日にWEBに掲載された「Jcastテレビウオッチ」というサイトがある。そこに「ワイドショー通信簿」というタイトルで、次の記事が出ていた。 

玉川徹(テレビ朝日ディレクター)の「そもそも総研たまペディア」コーナーで、東京都知事とは何者かを考えた。平たく「どれくらいエライ?」とタイトルを振ったが、数字を調べ、カメラでルポ、インタビューと並べてみると、これは相当なものだと納得だ。

「東京都の経済力」メキシコや韓国よりも上

都知事のエラさを測る物差しを玉川は「お金」「住居」「パワー」の3つとした。まずお金だが、東京都の財政・経済規模は凄い。予算が12兆838億円、GDPが91兆1390億円で、ともに国の5分の1くらいを占める。このGDPを各国のランキング(2010年)と比較すると、1位アメリカが14兆ドル台、2位の中国と3位の日本が5兆ドル台、4位のドイツが3兆ドル台と続くのだが、東京都のGDPのドル換算は1兆635億ドルで、13位のオーストラリアの次だ。14位のメキシコ、15位の韓国よりも上である。

偉いんですねえ
次に給料だ。総理大臣をはじめとする国の公務員、議員のランクをみると、1年間務めた場合の給料・ボーナス・退職金の合計は、トップが最高裁長官で約4402万円、次が総理大臣の約4030万円、衆参議長の約3532万円、最高裁判事の約3210万円、官房長官国務大臣人事院総裁会計検査院長の2939万円と続く。国会議員は約2106万円で、内閣法制局長官宮内庁長官より下である。で、都知事はどのあたりか。

玉川「どのくらいだと思いますか。知事の中ではトップです」
司会の羽鳥慎一「ダントツですか。神奈川とどれくらい違うんだろ」(大笑い)
高木美保(タレント)「国務大臣クラスじゃないかしら」
羽鳥「いや、大臣より上なんじゃないですか」
答えは総理大臣に次ぐ3番目。約3749万円だという。衆参議長より上だ。

玉川「退職金の計算が月ごとなので高くなるんです。小泉さんが5年半総理大臣をやって600万円ちょっと。東京都知事を1年やると1000万円くらいもらえる」
                       (以上「ワイドショー通信簿」より引用)

 「ワイドショー通信簿」の情報によると、東京都知事の公的に保障された収入、いわば「目に見える収入」だけでも、平安時代の国守のそれを遙かに凌駕している。更に日本の首都である東京の経済力、人口の多さから考えても、東京都知事の発言力やそれに伴う権力の大きさは、時には国の大臣を上回る。経済的規模で言えば韓国という国家を上回る力があり、これは平安時代の国守の比ではない。知事の裁量で使える「目に見えない収入」を入れると、知事の実質給与がどれほどなのか見当がつかない。

 平安時代の受領階級たちは、自分たちの権力をかさにきて、在任中はおおいに私腹を肥やしていた。『枕草子』や『源氏物語』に登場する、女性的で穏やかな貴公子像とは違って、現実の平安貴族は「悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界」に生きていた、と繁田信一氏は『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房)で述べている。そしてなんと、われらが清少納言の兄も、その「悪巧み」の中に巻き込まれ、殺されているのである。

 寛仁元年(一〇一七年)、清少納言の兄の清原致信は、和泉式部の夫であった藤原保昌の朗等であった。その保昌は、大和守に任命された間「不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた」ようだ。やがてそれに歯向かった大和国の当麻為頼に対して口封じ的な殺害を命じられたのが清原致信であった。致信の殺害は、その行為に対する復讐を受けたものであった。

 繁田信一氏の記述によれば、清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものといわれている。頼親は大江山酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だった」

 現代流に考えれば、清少納言の兄の殺害は、国守という権力を利用してあらゆる不正行為に手を染めていた藤原保昌が、自らの不正を摘発しようとした大和国の当麻為頼の殺害を清原致信に命じ、それを実行した清原致信がその報復に殺害された事件であった。和泉式部清少納言が優雅な暮らしを営めたのも、その背景に夫や兄のこうした不正行為によって得られた蓄財によっていたはずだ。
 いや両者だけではなく、藤原氏を頂点とする貴族社会は、こうした地方の犠牲の上に成り立っていたのだ。和泉式部清少納言はそれを知っていたのだろうか。もし知っていて、あのような優雅な世界だけを描いていたとしたら、彼女たちに対する評価にも微妙な調整が必要かも知れない。
 鎌倉時代に成立した『古事談』では、事件当時、清少納言は殺害された兄と同居していたことになっている。そして兄は目の前で殺害され、それどころか清少納言自身も殺害寸前までいったと書かれている。いずれにしろ宮中を退き、当時は五二歳になっていた清少納言にとって、衝撃の出来事であったには違いない。

 舛添東京都知事が、もし平安時代の世に生きていたら、彼は殺害されることは勿論、辞職に追い込まれることもなかっただろう。金を私的な理由で消費はしたものの、平安貴族のように都財産を大量横領したわけではないからだ。仮に「収奪」していたとしても、むしろ彼を追及する集団は、ロシアや中国がそうであるように政敵として投獄されたり抹殺されたかも知れない。ただ、支配者側も油断すると、家を放火されたり清少納言の兄のように報復で殺害されることもある。が、平安時代なら「クレヨンしんちゃん」の本を公費で購入したなどという「些末」なことは、話題にも上らなかったはずだ。彼の行為は信じがたいほど「Sekoi」からだ。 

 ただ、藤原保昌が自分の批判者を殺害したのは、もし自分の行為が明るみに出れば、「不正行為」として処罰される可能性があったからだ。が、現代の東京都知事の「行為」のいくつかは必ずしも法律違反に問われない。また違反があったとしても、額が小さいので立件出来るだけの犯罪とは証明されない可能性がある。東京都知事の辞任は当然としても、その理由は現在の時点では「背任行為」ではなく、道徳的問題であったり、知事に対する生理的嫌悪感であった。

 しかし、本来、もっと話題にすべきなのは、普通の庶民感覚では当然「不正行為」と認定される行為ですら「合法」と認定する、いい加減な「法律」の検討であり、改正である。が、与野党ともそれには触れない。領収書を必要としない「政治資金法」の便利さを与野党の議員は手放したくないのだろう。

 平安時代の王朝貴族は「収奪の限りを尽くした」と繁田信一氏は述べる。が、それが明らかになれば形式的であっても、処罰の対象となる。が、現代の「政治資金法」では、合法の仮面をかぶって実行できる余地を残している。もっとも、平成の時代では、さすがにそこまで収奪に踏み切る政治家は少ないだろう。

 現代は、新年の家族旅行で公費を私物化しただけではなく、「クレヨンしんちゃん」の本を購入したというsekoiことまで辞任理由の一つとして連日追及される時代。

 東京都知事の有力候補だった野党の女性国会議員が、知事選出馬を辞退したのも、「政治資金」運用に関して些細な出費を追及され、政治生命を絶たれることを恐れたからかも知れない。

 役人が「収奪の限りを尽く」す社会が良いとは決して思わない。が、我々はさまざまな意味で窮屈で不寛容な時代に生きているのである。それはそれで、けっこう疲れるものだ。

【団塊ひとり】歴史的な住民投票 大阪都構想を巡る抗争の意義 

大阪都構想」の結果が出た。予想以上の僅差だった。大阪維新の党という一地方政党が、日本国の与党である自民党の一部・公明党および野党の民主党共産党などの与野党連合を相手に「大坂の陣」で、対等に戦ったという事実は大きなものがある。もう少し組織や戦略を固めていれば勝っていたかもしれない戦いだった。

 「敗戦後」橋下氏は、自分は「ワンポイントリリーフ。権力なんて使い捨てでいいし、敵をつくる政治家が世の中にずっといるのは害だ。それが健全な民主主義というものです」という言葉を残し「引退」を表明した。

 いい意味でも悪い意味でも橋下氏らしい言葉と行動だ。計算はあるのだろうが、後先考えず突進する。およそ政治家らしくない野放図さが長所でもあり短所でもあった。あえて不必要に敵を作らなくてもいいのにとか、もう少し考えて発言すればいいのにと何度思ったことか。いい意味で政治家らしくなかった。毀誉褒貶、評価は様々に分かれるだろうが、既成政治家には無い行動力と「無私」性が感じられた。下品で粗暴で歯に衣着せない発言。が、そのような政治家で無ければ今の泥沼化した大阪の疲弊・衰退を止められないと思う有権者の強い期待が橋下氏を支えていたはずだ。

 橋下氏の「敗因」は大阪人の保守性を甘く見たことだろう。特に、既得権益を失うことを恐れる大阪の高齢者の多くは、体制をぶっ壊すと脅かす橋下氏に拒否反応を示した。ある地方で保育所建設に反対したのは、現状の環境「改悪」をいやがる高齢者たちだ。当事者間にしかわからないことがあるかもしれないが、若い世代はますます子育てに慎重になるだろう。その結果、女子の就業率は減少し、子どもを産まなくなり少子化はとまらなくなり、その地域は活力を失うだろう。そして、この姿勢を目の当たりに見た反維新連合は、もう老人に反対する政策は打ち出せない。その結果、大阪の保守化はいっそう進むだろう。同時に東京一極化を防ぐための受け皿としての役割は、名古屋や神奈川などに奪われてしまうだろう。従来の政策を推し進めてゆく限り大阪の地盤沈下はとまらない。

 老人を大切にするのは当然だが、その結果改革を恐れるようであってはいけない。このままでは大阪は、ますます老人が支配する町になり、若者は大阪を離れ有力な企業は東京に地盤を移すだろう。大阪の芸人ですら東京に本拠を移している現状だ。大阪人の「弱者」に優しい側面は同時に大阪の弱点にもなっている。「生活保護受給者」の一部は、大阪の黒社会に取り込まれ大きな税金支出の負担になっている。どれほど「理想」的に見える政策も、それを支える経済的基盤が存在しなければ、借金を積み重ね、未来世代に負担を増すばかりだ。若者世代の多くが橋下氏に賛同したのも当然と言える。

 橋下氏の支持者は圧倒的に若者が多い。が、彼らは口ばかりで選挙に消極的だ。反対に大阪市が消滅すれば職を失う議員を中心に、反対活動は熾烈だった。利権が複雑に絡み合った大阪では、利権を守る運動も盛んだった。それでも彼らは橋下氏に圧勝できなかった。この事実は大きい。

 自民党公明党民主党共産党という、明らかに異なった政策・思想を持つ野合集団である反維新連合は、「共通の敵」を失った後どう動くのだろう。自分たちを支持してくれた「選挙民」の利益だけを追求するのだろうか。それとも別の形で大阪市の「改革」に取り組むのだろうか。

 橋下氏の引退表明で大きな衝撃を受けてるはずの[維新」は誰が引き継ぐのだろう。維新の党も解党してばらばらになり、他党に吸収されるのだろうか。大阪都構想は頓挫したとしても、二重行政がもたらす弊害は除去されねばならない。一見、東京に追随するだけに見えた大阪都構想も、その活動の担い手である橋下氏や維新の会は、自民党民主党共産党と比べると遙かに大阪的な政党であった。が、その地域性が逆の形で宣伝されてしまった。私は、東京都を連想させる「大阪都」というネーミングが大失敗だったと思う。

 橋下氏が引退した後の「維新の会」はどうなるのだろう。まさか、民主党に流れて鳩山政権のようなあの屈辱の時代を再現させ、大阪だけでは無く日本弱体化に協力するつもりなのだろうか。欠点がありながら今までの既成政党には出来なかった、実行力という長所を捨ててはいけない。今回の住民投票の結果だけで自分たちを全否定せず、偉大なローカル政党としてさらに発展してほしい。

 大阪都構想に反対した政党は、これから大阪の矛盾、経済的衰退、教育の劣化などにすべての責任を負わねばならない。そしてこのような結論を導き出した大阪市民も、その決断を後悔することのないように、努力してほしいと思う。大戦果に見えた真珠湾攻撃も、長い目で見ると日本崩壊の口火にすぎなかったという、反省だけはしたくないものだ。

【団塊ひとり】テレビ朝日は「転向」したのか。

 最近の一部メディア、特にテレビ朝日系列の報道番組に「変化」が出ているという記事が目立つようになった。報道姿勢が精彩を欠いているというのだ。例えば水島宏明氏は「東洋経済オンライン」の記事で次のように述べている。

 「テレビ朝日系列の『報道ステーション』および『報道ステーションサンデー』の姿勢が以前とかなり異なっていることに気がついた。」憲法改正に向けた日程まで出されている現状に対して、「精彩を欠いている。というか、熱意が伝わってこない。」と述べている。

 さらに、水島氏は各方面からの様々な、特に政府筋からの批判を受けて「テレ朝は従来と違って、正面からの政権批判を避けるようになったのではないか」と「率直な印象」を述べている。同感だ。古賀発言によって政府・自民党に「正々堂々と圧力をかける口実を与えてしまった」ことが原因だ、とするのも同意できる。

 視聴率は5%前後を変動するテレビ朝日系列の「モーニングバード」の木曜日は、玉川徹氏の「そもそも総研」という番組のある日だ。ある意味テレビ朝日の「クローズアップ現代」的な番組で、私はそれなりに注目してきた。立場は違いこそすれ、時々よい番組作りをするので、たまには共感するときもあった。が、最近の原発や対中国問題や政府批判においては、暴走気味になってきて、もはや報道なのかアジッているのかわからなくなってきた印象が強かった。

 が、今朝の番組を見て驚いた。「無人島で快適な自給自足は可能なのか」というタイトルだ。そして内容はあるタレントが購入した無人島での、自給自足生活を紹介している。今までの挑戦的な日本批判、政府批判はどこにも見られなかった。最も最後に日本も、タレントの「無人島」と同じ島国だと強調していたので、原発がなくても日本は自給自足できることを、証明するつもりだったのかもしれない。もちろん、一人の自給生活と、様々な環境の下で生活する1億人を超える国民とを同じ次元ではかれるわけがない。それを平気で押し通すのがこの番組の神髄だとしても、やはり説得力は薄すぎる。

 さて、水島氏はさらにテレビ朝日が「コメンテーター室(仮称)」を設置して、「コメンテーターと局側との意思疎通を強化していく」ことに批判的だ。政府の批判に対して自己規制をしたと同じであり、「報道機関としての牙を抜かれてしまったこと」が問題だとして指摘する。これも当たり前のことで、あれしきの「弾圧」で「屈していたら」ジャーナリズムの矜恃が微塵も感じられない。テレビ朝日の姿勢は報道の自殺行為だ。反省と自己規制とは全く別物のはずだ。
 が、私はテレビ朝日朝日新聞新聞に対して、水島氏は少し買いかぶっていたのではないかと軽い驚きを感じている。戦前あれ程戦争を賛美し、国民を死に追いやった戦争を美化してきた朝日新聞大本営発表を批判もなく垂れ流してきた朝日新聞だ。もちろん朝日新聞だけではなく戦前の一時期、日本のマスコミはすべて戦争遂行のための宣伝機関に成り下がっていた。

 ところが表面は政府の忠実な「御用新聞」、もっともその裏でソビエトと通じ、スパイゾルゲに情報を売り渡していたのだから、とんでもない組織だ。その朝日新聞が8月15日を境に突然「民主的な報道機関」に生まれ変わった。そして日本政府を見限った朝日新聞は、以後は占領軍の忠犬になり、、当時は日本無力化の象徴であった「憲法9条」の番人となりそれは今でも変わってはいない。朝日新聞は一見「反米」のポーズをとりながら、実は占領軍の思想を今もまじめに受け継いでいる守旧派だ。そして時代の変化を見て戦争賛美者から「軍国主義者」を追求する側に回った。「変節」は朝日新聞の特技とも言える。もちろん朝日新聞だけではないのだが。

 戦前の行動を見る限り、日本の報道機関の多くは、自分の命と引き替えに自己主張しようと考える人間は少ない。自分のことは棚に上げて他人ばかりを批判する。そして少し脅かせばすぐ人の言いなりになってしまう。実に情けない。

 大阪では橋下市長や安倍総理を「独裁者」として、「攻撃」する。戦後生まれの日本人である私は当然「本当の独裁者」や「独裁国家」というものを知らない。が、ヒットラー毛沢東スターリンなどの本当の独裁者が行った圧政はよくわかる。対立者が仮に橋下市長や安倍総理に「独裁者的」な要素を感じても、それは「独裁」というよりも「強い指導力」と言い換えるべき性質のものだ。

 橋下氏も安倍首相も特定の民族を殲滅するためのゲットーは作ってはいない。韓国や中国のように政敵や記者を不当逮捕したり暗殺したりもしない。それでも両者を独裁者呼ばわりするのなら、彼らを選挙で選んだ国民を愚弄することになる。

 公共のテレビを使った言論の爆弾テロのような古賀発言は問題である。そして法律に触れる行為をしたもの、それを公然と許したものに対して、その理由を質す行為そのものは弾圧とはいえない。マスコミは、治外法権の世界に生きているわけではないのだから。しかし、もしそれを弾圧と思うのならば社運をかけて会社は記者を守ればいい。徹底して政府に抗議してゆけば良い。そのことで干されたり、職を失ったりしても、それはジャーナリストにとって勲章になるはずだ。しかし、それさえも出来ず自らの保身のみを考えるのなら、さっさとジャーナリストの看板を下ろすことだ。

 だが、朝日新聞テレビ朝日に変節の兆候が見え始めたことは、彼らが世間の変化を鋭く察知する「勘」を持っていることを実証する。だから、70年前、朝日新聞が見事に変節に成功したように、新しい時代に「生まれ変わろう」と決意したのだとしたら、私は大歓迎だ。

【団塊ひとり】「天声人語」の論旨 スイス国軍と自衛隊

 1日の「天声人語」の文章がよく理解できない。書き出しは「終戦間もない1949年、日本を「太平洋のスイスに」と語った人がいる。ほかならぬ占領軍のトップ、マッカーサー元帥だ。」だ。これだけを読めば、朝日新聞が日本が「太平洋のスイス」になる事を肯定しているのか否かは定かではないが、憲法では占領軍の思想を忠実に遵守しようとしている朝日新聞だから、戦後そうであったように今も朝日新聞にとっては、マッカーサー元帥の発言は「天の声」なのだろう。

 その後「天声人語」は警察予備隊自衛隊という日本の歩んだコースを「逆コース」と断じ、安倍首相批判に到達する。このままゆけば日本に徴兵制が復活し、軍国主義化するという妄想に基づいた主張だろう。が、警察予備隊を設置したのは日本の意志ではない。朝鮮戦争の思わぬ苦戦におどろいたアメリカが急遽とったご都合主義の方策だ。ローマ気取りのアメリカは、日本をカルタゴのようにつまり、二度と独立国として立ちゆかないように考えていたはずだ。それは憲法9条にもっともよく表れている。が、朝鮮戦争でその考えを放棄せざるを得なくなった。

 朝鮮戦争が始まったのは1950年だからマッカーサーの発言はその前年だ。ともあれ、スイスは国民皆兵を国是としており、徴兵制度を採用している民主主義国家だ。それどころか各家庭には自動小銃(自動拳銃も含む)が貸与されるという徹底ぶりだ。有事の際は焦土作戦も辞さない毅然とした国家意思を表明しているのだから当然だろう。もちろんPKOへの参加に積極的であることはいうまでもない。朝日新聞の平素の主張とはおよそ正反対の国家だ。戦争を肯定し徴兵制を敷いている点で憲法9条とも全く相容れない国家だ。

 天声人語は何を主張したいのか。マッカーサー元帥の言葉通り日本をスイスのような国にすべきというのか。そのためには徴兵制や国民皆兵もヤムを得ない、PKO参加は当然だと主張したいのか。が、今までの朝日新聞の主張からはとてもそうは思えない。まさか「天声人語」は朝日新聞の鬼っ子という訳でもあるまい。

 「天声人語」は次の言葉で結ばれている。「日本が直接戦争に加わらずにすんだのは憲法9条の存在が大きい。自衛隊が「普通の軍隊」だったらどうだったかと、ふと思ってみる。」だ。「普通の軍隊」とはどのような軍隊なのか。具体的にはどこの国の軍隊が「普通」なのか。アメリカ?ロシア?中国?北朝鮮?それとも・・・・。「天声人語」の発言は思わせぶりで、謎かけのようで、本音が見えているようで簡単には理解できない。それとも、私の粗雑な頭では彼らの発する「天の声」を理解できないだけのだろうか

【団塊ひとり】ジャーナリストとスパイとの差

 今朝の朝日新聞の社説を読んだ。「外務省の広報―報道の自由を損なう」という一文だ。「日本政府は外国メディアに不当な圧力をかけているのではないか。そう疑われても仕方のない事態が起きている。」として日本政府を批判している。

 朝日新聞の記事がもし本当なら、報道機関に高圧的な態度をとることが、日本の国益や信用を落とすことに気づかない外務省の体質は戦前から変わっていないことになる。朝日新聞のようなプロバガンダ発信の「報道機関」に攻撃の契機を与えるだけでも、国家的な犯罪だ。

 外務省や政府は中国や韓国のやり方を見習うべきだ。自らは表に出ず。朝日新聞毎日新聞のような「報道機関」に自分たちの主張を代弁させる。アホな官僚や政治家が新聞社を攻撃すれば、してやったりと自分たちの宣伝活動を始める。残念ながら諜報活動において日本の拙劣なやり方はめにあまる。

 欧米の日本脅威論は「日本海海戦」の大勝利から始まった。が、それに気づき行動に配慮する政治家やマスコミ人はいなかった。国民も目先の勝利に有頂天になって一等国意識を振り回し始めた。日本海大海戦のような華々しい勝利こそないが、経済的発展を遂げ経済大国の確信を得た中国は、ちょうど日本海海戦で勝利した日本の状況によく似ている。が、熱にのぼせ上がるのではなく冷静に判断しなければ成功は望めない。真珠湾を攻撃されたアメリカは、冷静に日本軍の動きを判断して、自分たちの勝利を確信しただろう。日本軍は戦艦ばかりを攻撃し、燃料タンクの攻撃はしなかったからだ。

 今でも憲法を改正すれば、「徴兵制」が復活すると言って国民に不安感を与える政党や報道機関があるが、「徴兵制」という古くさい制度を持ち出すことで、自分たちの古い思考をさらけ出していることに気づかない。いや、もしかしたら気づかないふりをしているのかもしれない。

 高度に発達した武器を使用する近代的な「軍隊」にとって、その機能を活用できない能力しかない人間は足手まといにしかならない。そして兵器はロボット化、すなわち無人化の方向に進んでいる。高度な武器を生産できる日本にとって徴兵制など無意味な存在であるのは明らかだ。

 中国が何を考えているのか、日本をどのように教化しようとしているかは朝日新聞のような「ジャーナリズム」を見ているとよくわかる。スパイは必ずジャーナリストを装う。戦前、朝日新聞社記者の尾崎秀実から国家機密を入手していたソビエトのスパイ、ゾルゲの肩書きはドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者である。彼らは正体がばれそうになれば、ジャーナリストの特権をちらつかせる。しかし、現在でも「新聞記者」の肩書きが、真のジャーナリストであることを示す保証はない。

 が、素直な日本人は「ジャーナリスト」という肩書きに弱い。「振り込め詐欺」の犯罪者も公的機関を装って高齢者をだます。そして肩書きに弱い人々はそれに騙されてしまう。この悪循環を断ち切らねば日本の再生はない。が、そのための論理的な思考が政治家や国民にあるとはとても思えない。

【団塊ひとり】今の時点でのAIIB不参加は正しい選択だ。

 首相官邸にドローンを飛ばした男が逮捕されたが、罪状はなんと威力業務妨害罪。日本という国のおかしさがよく出ている罪状だ。「有事」に対する法整備が全くなされていない。これがロシア・中国だったら国家反逆罪・テロ実行罪などの重罪になろう。戦後日本人は「有事」を想定できないのだろう。が、福島の原発事故も「非常事態」を想定外にしたことが原因だ。

 日米2プラス2の結論に反対して、中国が「尖閣諸島が中国に属するという事実は変わらない」と主張している。ある意味で事実上の「戦争宣言」に等しい。が、多くの日本人はそれに気づかない、または気づかぬふりをするのだろう。戦後民主主義は日本人から想像力を奪い取った。「戦争反対」を呪文のように述べておれば、戦争が避けられると思う考えは実に非論理的でかえって戦争を招く危険な思想だ。

 「口が先行」する戦後の日本人と違って、アメリカやロシアやイスラムや中国人などの原理主義者は、発言したことは必ず行動に移す。かつて「悪魔の詩」を翻訳した外国人の「処刑」をイランが命じたとき、欧米は「翻訳者」を国家が守った。が、日本では翻訳者本人自身も警戒しなかったのではないか。

 その結果、1991年7月、翻訳者の筑波大学助教授の五十嵐一氏が大学のエレベーターホールで刺殺された。現場には中国製カンフーシューズの足跡が見つかった。直後に短期留学生が自国に帰国している。が、容疑者に対する捜査は、某国との関係悪化を恐れる日本政府(海部俊樹首相)の意向により打ち切られたらしい。(文藝春秋

 いま世界は第一次大戦終了後の欧州に似てきた。当時台頭してきたナチスに対して、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンは宥和政策をとり、ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた。もちろん当時はそのような意志はなかったのかもしれない。が、その結果イギリスはロンドン空襲など手痛い被害を被った。が、そのイギリスが中国に対して同じような行動をとろうとしている。歴史は繰り返すのか。

 戦前の日本も、当時躍進してきた「ナチス」の勢いにだまされて同盟を結んで、国家の破滅を導いてしまった。いくら経済発展して強力な軍隊を保持していても、一つの民族を差別・抹殺をうたうような国家と連携すべきではなかった。見かけの現象にだまされて、ナチスの本質を見抜けなかった当時の政治家・マスコミの責任は重い。

 いま中国はかつてのナチスと同様に経済発展はめざましく、軍備も飛躍的に増強してアメリカを圧倒するかのようだ。が、裏面ではチベットウイグルなどに激しい弾圧を加えて、かつてのナチスと変わらない行動をとっている。同盟できる国とはとても思えない。

 AIIBは今の日本では一種の踏み絵のような役割を果たしている。つまり参加するか否かの判断が、自身の政治的主張・判断を明示するような状態になっている。政府が参加を見送ったのは正解だ。いま日本がAIIBに出資することは、中国の軍備増強に貢献することに等しいからだ。長い目で見ると、中国に対する宥和政策は、日本の首を絞めることに等しい。目先の利益に惑わされない確かな目を持つことが必要だろう。