政治家の言葉


 ブログ初心者が初めて作ったブログです。宜しく。音楽や文学や世相について感じたことを、多少主観(独断と偏見?)を交えて語ります。個人の名誉を傷つけないように注意しますが、公人に関しては多少辛口になります。第一回目は【ワードウオッチング】で「えだる」について。

 地震津波原発・・・・と日本中が揺れている。枝野官房長官は頑張っているが彼の発言はある意味で実に興味がある。彼はあんなに不明確・不確実な事をどうしてあれほど羞恥心も見せず堂々と話せるのだろう。それに反して同じことをなぜ首相はあんなに自信なげに語るのだろう。個性の違いと言うこともあろうが、官房長官が弁護士出身であることと関係があるように思われる。弁護士の仕事は、無実の人間のえん罪を晴らすことである。しかし同時に黒い社会と結びつき、その社会を擁護するためにその才能を費やす弁護士もいる。前の官房長官もそうであったが、どうもこの政権は弁護士的な語り口を特徴とするようだ。つまりディベートの才能に長けている。事業仕分けでも見られたが、相手には弁解や説明の時間を与えない。しかし、自分が追求された時は、主題をはぐらかし一般的な説明を長々と話し続け、論点をぼかそうとする。しかし、それはある種の「国民」にはたくましく、かつ好ましく映るようだ。いつしか「えだる」という動詞が語られるようになった。

【えだる】
  ①極限まで睡眠を取らないこと。寝る間も惜しんで働くこと。
  ②上司に恵まれず必要以上の努力を強いられること。

 「国民」は明らかに枝野の置かれた立場を多少同情的・好意的に見ているようだ。が、ACのCMが、そのあまりにも多い繰り返しによって反発されるようになったように、官房長官の語り口も次第に鬱陶しいものと受け止められ始めたように思われる。次にあげるのはネットで見つけたACのCMのパロディ。

「大丈夫?」っていうと「大丈夫」っていう。
「漏れてない?」っていうと「漏れてない」っていう。
「安全?」っていうと「安全」っていう。
 そうして、あとでこわくなって
「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと「ちょっと漏れてる」っていう。
 こだまでしょうか?
 いいえ、枝野です。

 反応が次第に変わり始めているのがわかる。

 シェークスピアの作品「ジュリアス・シーザー」で、シーザーを暗殺したブルータスが演説した後を受けて、シーザー(カエサル)の腹心アントニーアントニウス)が演説する有名な場面がある。

 アントニウスはまずブルータスを褒めそやす。そして市民たちはそれに賛同の拍手を送る。アントニウスはブルータスのことを「高潔な人格者」と何度も大げさに褒めそやす。そのうちに市民たちに微妙な変化が生じる。市民の間にわずかにブルータスへの懐疑・反感が生じ始める。そしてアントニウスはそれを利用し市民をブルータス排斥へと煽動するのだ。同じ単語を何度も聞かされると反発したくなる人間の天の邪鬼性を見事についた政治的な演説だ。

 自民党アントニウスのようなディベートの「達人」がいないのが政府に幸いしている。ディベート力でいえば自民党民主党の足下にも及ばない。でも政治はそれでいいのか。実態を伴わない空虚な言葉だけが勝手に歩いて無責任な世界を構築する。「私を信頼して」こんな言葉は詐欺師なら誰でも得意だ。「今は損が出ているように見えるが、あと○○円出して、私に任せてくれ。3年後には必ず倍にするから」。信じる方がバカだというしかない。「今までは仮免許だった。3年後にはいい運転をお目にかける。」普通の感覚ならとても3年も待つことは出来ない。特に今のような非常時では何よりも強烈な指導性と、実行力が要求される。被災者には何年も待つ余裕はない。子供手当などで民主党を支持しただろう若い選挙民には反発されるだろうが、私は実行の裏付けのない政治家の言葉は、一種の詐欺・犯罪だと思うのだが。