東日本大震災・被災者にかける言葉

 一部のマスコミのレポーターが災害被害者や犯罪被害者にかける最初の「ことば」の多くが「いまのお気持ちは?」。なんと貧困でなんと冷たい言葉だろう。そこには相手を思いやる、ちょっとした気遣いさえ感じられない。例えることの出来ない悲劇を経験した被害者や被災者に「今のお気持ちは?」なんて、普通の神経を持っていれば尋ねられない。誰もが涙を流すしかないような場面で「いまのお気持ちは?」などと人ごとのように聞く神経がわからない。そんなことさえあなたは聞かなければわからないのか、と思う。その中で、22日の読売新聞のコラムで、久しぶりにいい言葉に出会った。  

 堀口大学の『わが詩法』に〈言葉は浅く/意(こころ)は深く〉とある。宮城県石巻市津波で倒壊した家から祖母と孫が9日ぶりに救出されたニュースに、その詩句が重なる◆「将来、何をしたい?」。80歳の祖母を守り抜いた高校1年生の阿部任(じん)さん(16)を発見・救出したとき、県警の石巻署員は衰弱した任さんに尋ねたという◆もう大丈夫だ…助かったぞ…生きているんだ…がんばれ…もろもろを込めた「将来、何をしたい?」であったろう。語り口は世間話のように浅く、思いやりは深い。任さんは「芸術家になりたい」、そう答えたという。(3月22日付 編集手帳

 人が発する言葉はこうでなければならない。人の発する言葉には相手を気遣う、思いやりの気持ちが入っていなければならない。そしてそれは作ろうとして出来るものではない。

 ニュージーランド地震で足を切断した学生に発したフジTVのOアナの「もうサッカーは出来なくなりますね。」という発言。この無神経な発言には、さすがに海外からも非難が殺到したという。

 勤めていると上司や顧客、保護者などから「理不尽」で高圧的な言葉を浴びせかけられることも多い。そして多くの人はそれに堪えているのだろう。例えば、前の官房長官から「暴力組織」だと嘲笑された自衛隊員。しかし彼らはいま、黙って与えられた仕事に集中している。「仕事」だから仕方がない、当然だという反応もあるだろうが、原発放射能の危険にさらされて活動している自衛隊員は、自分達を否定する指導者の下でよくやってくれていると思う。そして彼らの背後には「出動」を心配する「家族」がいる。自衛隊は「戦う集団」であるが、彼らは決して殺人組織でもなければ暴力組織でもない。彼らも、普通の家庭を営んでいるのだ。しかし何よりもそれを上回る、責任感・使命感が彼らを支えているのだ。もちろん自衛隊だけではない。警察官、消防署員、海上保安庁、など多くの公的機関に勤める人たちも皆同じだ。

 上に立つものは非常時には言葉を明確にすべきである。しかも瞬間に発せられる言葉は、同時に相手を特に弱者を思いやる言葉になっていなければならない。そして最後には自分がその責任を全て受ける決意でいなければならない。福島の原発の微妙な避難地域に住んでいる人たちに、「自主退去」を進める言葉ほど、相手の「気持ち」を尊重しているように見えながらこれほど突き放した冷たい言葉もないように私には思われる。ガソリンがない人たちがどうして自主待避出来るのか。点滴治療が必要な重病人(その多くが高齢者)を抱えた家族が、車もなしにどうして自主待避できるのか。「危険ゾーン」と認定された場所に民間の車が入らないことを、どうして責めることが出来ようか。安全な場所にいるだけではわからないことがある。このように「取り残された人たち」(公的には「自主的に」残留している人たち)の存在はマスコミの報道が教えてくれている。彼らの姿は、まるで糧秣を断たれて「捨てられた」ジャングルの「旧日本兵」のように映る。政府はもっと積極的に動くべきと思う。責任の追及を恐れたり、費用を惜しんではいけない。国民を守る、生活が第一と考えるのなら、今こそまさにその機会ではないか。

 そして私たちは、もしかける言葉が見つからなかったら、その時は黙っていよう。そして自分に出来ることを見つけよう。その気になれば被災者のしてほしいことはわかるはずだ。遠くにいて自分の無力を感じている人は、例えわずかでも募金をしよう。

 私が世界で最も感動した手紙。それは南極にいる越冬隊員にあてた新妻の手紙。そこにはただ「あなた」という文字が。受け取った隊員は絶句し、涙を流したままであったそうである。南極の越冬が大変だったいまから半世紀近くも前の出来事である。