石巻市の花火大会

東京都の「花見」自粛と石巻市の花火大会

 今回の震災を機に各地で祭りなどの自粛ムードが広まっている。私の住んでいる関西でも、市の通達で恒例の「桜祭り」が中止になった。

 東京都の知事の「自粛宣言」に対して、民主党蓮舫・節電啓発担当相が、経済効果の側面から「権力による自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべき」と反対しているそうだ。しかし石原知事の発言をよく読むと花見に伴う「宴会」の自粛であって、花見そのものを禁止しているわけではない。今年も私は80を過ぎた母親と共に「花見」には出かけるが、とても飲食して大騒ぎをするような気持ちにはなれない。宴会に費やす金があれば今回は募金に回したいと思う。そして今年は静かに花だけを眺めよう。経済効果云々ではなく、「日本人」の考える「自粛」とはそういう意味だと私は思う。

 毎日新聞によると、石巻商工会議所の浅野亨会頭は1日、石巻市役所で会見し、「石巻川開き祭り」(8月1、2日)を予定通り開催すると発表したそうだ。メーンの花火大会は1万7000発の花火が打ち上げられ、例年約20万人の見物客が訪れるとある。なぜこの時期にといぶかる人がいるかも知れないが、私は賛成したい。一見、金の無駄遣いに見える「花火」。それを復興資金に回せ、という意見もあがるかも知れない。それでも私は「花火」が大空に打ちあがる姿を見たい。

 父が転勤族だったので私も小学校3年〜5年の少年時代を石巻市で過ごした事がある。だから今回の災害は人ごととは思えない。私の石巻時代は、転校を繰り返すのは子供の教育によくないと言うことで父が単身赴任していた。その父と同居するために石巻を離れた。が、せっかく同居した父は、数日後にあえなく事故のために亡くなってしまった。初めて体験する、どうしようもない喪失感。朝元気に出かけたのに、夕方にはもうこの世の人間ではなくなっている。世の中には、このような理不尽な事が起こるのだ。だが、いま石巻市の人々が抱えている悲しみは、その比ではない。

 父が生きていた頃、連れて行ってもらった北上川の花火大会は、半世紀以上もたつのに、今でも父の面影と共に心に焼き付いて離れない。花火はその「はかなさ」によって、むしろ形あるものよりも強く人の心に残る。私にとって花火大会は、父の思い出そのものだし、石巻市の歴史が途絶えることなく続いているという証そのものだ。是非成功してほしい。被災地であるからこそ「花火大会」を実行する意味があるのだ、と私は強く思っている。

 瞬間に散ってしまう花火。しかし、それ故にこそ人々は花火の打ち上げられた夜をいつまでも記憶するだろう。そして「はかない花火」は、石巻市の復興に向けての記念すべき、「心のモニュメント」として記憶され、いつまでも語り継がれるだろう。