孫正義とビル・ゲイツとスラムの子供たちの寄付の精神

孫正義ビル・ゲイツとスラムの子供の寄付の精神 
 
 孫正義ビル・ゲイツの共通点。それは、ともにIT関係で成功した資産家で、ともに多額の寄付による社会的貢献を自分の生き方と心得ている点ではないか。そこには自分が「稼いだ金」は、自分を支持してくれた人たちが与えてくれたのだという謙虚な精神が存在するように思われる。そして築き上げた財産は、やがては社会的に還元することこそ自分の使命であるという、崇高な精神が存在するように感じられる。それでも孫氏がポンと100億円を寄付したのには驚いた。勢いのある会社・人間のすることは実に潔い。
 
 今回の東北大震災では、多くの有名人が高額の寄付をしている。ユニクロの社長、そのほかニトリ・AKB48・SMAPイチロー・松井など、さまざまな職種の実に多くの人が巨額な寄付をしている。そしてその輪は海外まで広がっている。

 しかし今回感動したのは、彼らとは正反対にいて、いつもは援助を受ける側にいるタイやアフリカのスラム街に住む子供たちまでもが、「援助」を申し出ていることである。自分の生活を守るだけでもいっぱいの子供たちが、はるか遠くの日本の災害に心を痛めて、募金活動をする。今まで日本から援助をもらっているので、今回はそのお返しだという。簡単に出来そうで、しかし簡単には出来るものではない。日本人の一人としてこれほどうれしいことはない。

 もちろん、スラムの子供たちの寄付金は孫氏の100億円と比べれば、取るに足らぬ金額である。しかし、それが100円程度であっても、その尊さは孫氏の100億円に決して劣らない。もしその100円が、その子供の全財産であったとしたら、彼(彼女)は全財産を「喜捨」したことになる。そう考えると、いま持てるもの全てを投げ出したという点では孫氏よりも尊いかも知れない。何よりも「他人の不幸」を自分の不幸として受け止めようとする気持ちが感じられる。「被災者」の苦難を自分たちと同じ目線でとらえ、共有する思いやりが感じられる。金額の多寡で、その価値を計る事はできない。

 前回も少し触れたが、今回の大震災以後、さまざまな行事に対して「自粛」が言われている。これに対して賛否両論がある。確かに過度な自粛は経済活動を停滞させる。その意味でもっと消費すべきだ、という意見も多く、それはある意味でわからないでもない。

 しかし、何不自由ない人が今までと変わらぬ消費行動をして「経済活動」を活発にする時に考えねばならないのは、「不自由」な状態にいる多くの人が、今までとは変わらぬ「消費行動」を出来ないという事実である。だから、私はこう考える。同じ消費をするのなら、自分は少しだけガマンをして、その分、「不自由な人たち」に代わりに消費してもらえばよいではないか。そうすれば「経済活動」が停滞することはない。それを可能にするのが義援金を送るという行為である。おおいに寄付をしよう。それも長く継続的に続けたい。

 しかし、こんな考え方もある。スポーツをすることが被災者に力を与える。笑いを届けることが被災者に力を与える。被災地以外の人間が今までと同じ生活をする。それはやがて被災者につながっていくと考えること。確かにそうかも知れないが、それだけでは不十分だ。計画停電の期間中に「自粛不要」「自分たちが試合をすることが被災者に力を与える」と主張して、いつもと同じ時期に東京ドームで野球をしようとした球団が批判されたのは当然だ。「心を共有する」ことよりも「奢り・他者に対する無関心」が感じられたからだ。衣食足りて礼節を、ではないが、スポーツを「商売」にしているのならば、そのなにがしかの利益の一部を、笑いを「商売」にしているのなら、そのなにがしかの利益の一部を、そして「幸運にも」被災を免れた被災地以外の人たちは、何杯めかのビールを「自粛」して義援金に変えよう。そして、その金は「自分の代わり」として消費してもらおう。ボランティアによって直接手助けできない人間にとって、それも被災者とともに歩むことになるのではないか。