【統一地方選挙】「自粛」と「他粛」と花見について

 午前中統一地方選挙の投票に出かけ、その足で例年のように近くの桜を眺めて帰った。桜並木といっても、全く有名ではない近くの川の200メートルほどの桜並木である。それでもいろいろな種類の桜が植えられているようで、じっと見つめているとそれぞれに色や花の形が違っていてあきない。残念なことに私は桜の種類がわからないので、これは桃色の桜だなあ、とか、おやこれは白い花だよ、とカミさんに話しかけることしか出来ない。まるで幼児だ。

 市が中止した「桜祭り」の会場に行ってみた。いつもより少し少ないかな、と思う程度で例年のように花見の客がいる。ただ看板や提灯などの飾りは無い。なくても気にはならない。人々も例年のように桜の通りを歩いている。桜も例年のように美しく咲いている。ベンチに腰をかけて静かに桜の花を眺めている高齢者。弁当を広げて静かに食べている家族づれ。若い人たちも昼間であったせいか、騒ぐこともなく静かに食べていたようだ。

 春といえばいくつかの和歌が思い出される。まず在原業平
  世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし
という歌は桜の花の美しさをたたえているし、
  月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
 は幸福だった過去と失意の現在との落差を歌っている。
そして、藤原俊成
 またや見ん交野のみ野の桜がり花の雪散る春のあけぼの
という和歌は、高齢者にとっては俊成とは別の意味で感慨深く感じられる歌かも知れない。

 いま花見や祭りなどの自粛が言われている。が、注意しなければいけないのは「自粛」であって「禁止」されているわけではないことだ。あくまで本人の意志に任されているのである。また「花見」の定義も一定ではないようだ。花見を桜花をたずねあるいて静かに観賞する桜狩の伝統として理解する人々と、花見=花の下でのらんちき騒ぎをすることと理解する人との差は大きい。この基本的な事をおさえていないので、「自粛」しない人を白い目で見たり、逆に「自粛」する人を「他粛」だ「萎縮」だ、経済活動を阻害すると白い目で見たりする。どちらも相手に対して強権的であり、誤った態度と言わざるを得ない。

 先日久しぶりに酒を少し飲んだ。私は数日に一回程度ささやかな晩酌を嗜むが、大震災以後、一滴も飲んでいなかったことに気づいた。しかし、別に自粛しているという意識はない。ただ酒を飲むような気持ちになっていなかっただけだ。

 私には4人の孫がいる。上はすでに中学2年であり、もう「じいじ」の役割はほぼ終了している。下は2歳で女の子でもあり、「じいじ」によくなついてくれている。かりに、もしその孫が津波か何かで行方不明となり、しかもまだ「孫」が見つからなかった状態で、「じいじ」はそれでもいつものように酒を楽しく飲めるだろうか。飲めるはずがなかろう。しかし「行方不明」であって、死んではいないと思っても、一月もたてば現実を直視しなければいけない日が来るに違いない。

 私にとって見知らぬ被災者に起こった出来事は、単なる人ごとと割り切ることは出来なかった。被災者の不幸に対する私の感情は、いわば「服喪」に近い感情だ。「服喪」は本来、近親者に課せられるものだ。だから他人には強制力は持たない。近親者以外が実施するときはあくまで自主的なものだ。だから、私の場合は孟子のいう、「惻隠の情」による行動に近いものだ。「自粛」云々という意識的なものとは違う。

 観光業者や飲食関係の業者、そして政権与党にとっては、「自粛」という形で経済活動が停滞することは死活問題である。それはよく理解できる。しかし、人間の自然な感情を経済的な側面からだけ考えて、「他粛」だ「萎縮」だとさげすむことだけはやめてもらえないだろうか。

 今の日本でまさしく正しい形で「自粛」という行為をされているのは、天皇陛下だと思う。圧力ではなく、自らの御意志で「停電」を実行され、自然な形で別荘の風呂を開放された。立派な別荘を持っている政治家、経営者、芸能人の誰がこのような事を実行したか。

 ブログを書いているうちに8時になった。NHKニュースを見ると、まだ開票が始まっていないのに、東京都知事、北海道知事などがすでに当選確実になっていた。NHKという会社はすごい力を持っているのだな、と変に感心した。