【東日本大震災】広島・長崎と福島の米兵


 今日は日本の元気な女性寺島しのぶさんの主演映画について感想を述べたい。昨年話題になった「キャタピラ」である。寺島さんは、6日に日本で行われたパーキンさん主催のチャリティーに出演し詩を朗読している。映画「キャタピラ」は話題になったが、あらすじを知らない人のために老婆心ながら少し書いてみる。

 映画の始めころに日本兵が中国人の女をレイプする場面がある。その直後その家は燃え落ち日本兵がその下敷きになる。この男が寺島しのぶの演じたシゲ子の夫、久蔵である。彼は出征前は子のない妻シゲ子を「産まず女」と罵りながら暴力をふるっていた。戦地での中国人の女に対する性的な暴行、妻に対する「暴力」。一見、無関係に見えるこれらの事柄が、この後おおきく久蔵に関係してくる。
 久蔵はその時の負傷が原因で四肢を失い焼けただれた顔で帰ってくる。勲章をいくつか土産にして。久蔵は「生ける軍神」として新聞に取り上げられ、村中の誇りとして崇められるようになる。しかし多くの美辞麗句を捧げられても、世話をするのは結局妻であるシゲ子の肩にかかってくる。村人や親戚たちは「軍神」および「軍神の妻」とシゲ子たちを「崇める」ことにより、自らは距離を置こうとする。つまり誰も直接関わりたくないのだ。しかも久蔵の負傷の実体は名誉ある「軍神」と称えられるようなものではない。時折流れるラジオの「大本営発表」が、「軍神」久蔵の実体と重なってくる。ともに国民を欺く虚報である。カメラは「軍神」久蔵と、彼を称えた「新聞記事」そして昭和天皇夫妻の「ご真影」を何度も映し出す。ここまでならありふれた「軍国主義批判」「反戦映画」である。天皇の名の下で日本はこんな悪いことをやりました。どうもスミマセン。今までに何度も繰り返されたテーマ。

 四肢を失った久蔵は、食欲と性欲だけの固まりとなって、シゲ子に襲いかかる。しかし彼は、食事はおろか、排泄すらも妻の手を借りなければ自分一人では何も出来ない。シゲ子は忠実に夫の「要求」に応えようとする。しかしそれは「愛」に基づく自発的な行為ではない。

 「献身的」だったシゲ子がやがて怒りを直接、久蔵にぶつけるシーンがある。昔は暴力を受けるだけだった自分が、今はっきり立場が逆転したことを知る。久蔵は卵を顔に塗りつけられても、顔をはたかれても、妻に罵られても彼には抵抗が出来ない。今まで彼女を閉じこめていた「家」の中で、貞淑な妻、シゲ子の反撃が始まる。

 やがてシゲ子は久蔵をリヤカーに乗せて歩き回るようになる。皆「軍神さま」と敬意を払ってくれる。彼女も「軍神」を支える「献身的な妻」を演じる。しかし、見方によっては四肢を無くし、醜い顔に変形した夫の「哀れな様」を白日にさらすことである。さらし者にすることである。そして敏感なものには戦争の実体を見つめさせることになる。

 一生懸命、畑仕事に励む妻シゲ子。それを少し離れた所から見守るように見える「軍神」。軍神と貞淑な妻という絵のような「通俗的な構図」。しかし実際の彼は「見守る」のではなく、そこに「置かれる」のである。それを支配するのは妻の意志。「見られる存在」だけになった久蔵は、もはや生産に関わることは出来ない。彼は自分の意志ではなく、妻の意志により軍服を着せられ、人々の賞賛を浴びねばならない。しかし実体は・・・・・それは自分自身が一番知っている。次第に久蔵に変化が訪れる。彼が炎の中で陵辱した中国人の女の面影が、彼を責め始める。そして妻とのSEXも不首尾に終わるようになる。

 東京大空襲、広島と長崎への原爆投下。15日の天皇陛下のラジオ放送。これらの映像が流れてやがて映画は終盤を迎える。戦争が終わったのだ。畑で働くシゲ子。そこには久蔵の姿はない。やがてカメラは玄関から出てくる久蔵の姿を捉える。四肢のない彼は、まるで「芋虫」のように「歩いて」いく。そして画面は水に浮かぶ久蔵の姿を、遠景から映し出す。戦争が終われば「軍神」は必要ない。彼の役割は終わったのだ。「軍神の死」によって妻シゲ子は「解放」される。 

 映画はその後日本のBC戦犯たちの絞首刑の実写映像を映し出す。多くの欧米の軍人たちが並んでいる中で、次々につるされていく日本人。処刑者たちは和やかに会話をしているように見える、いや楽しんでいるかのようにさえ見える。いまでもアメリカでは、処刑には報道陣だけではなく被害者家族まで立ち会わせることが浮かぶ。こうして多くの「日本人」が「平和に対する罪」を犯した「戦犯」として処刑される。

 映画は淡々と流す。東京大空襲の死者の数。アジア地域の死者の数。大戦全部の死者の数。広島・長崎での死者の数。死んでいった中国人の女性の映像、空爆や原爆で死んでいった子供たちの映像。おびただしく重ねられた骸骨の山。そして、元ちとせの歌が流れる。子供たちが火に焼かれないような世界、おいしいものを食べられるような世界の実現を訴える歌声。

 私なりに考えた。最後に久蔵は自殺した。それは敗戦により自分の将来に絶望しただけではない。自分の罪を悔い、自ら裁いたのだ。

 しかし、「戦争犯罪」とは何か。「人道に対する罪」とは何か。平和に対する罪とは何か。日本人を裁くために東京裁判で急遽作られた罪名は、本当に公平なものであったのか。東京大空襲・広島・長崎。アウシュビッツや、「捕虜」に対するシベリアの収容所での非人間的な処置。それらと日本人の犯した「罪」とどこが違うのか。。「平和に対する罪」を犯した敗戦国の将兵は裁かれたが、明らかに民間人を大量殺戮した「戦勝国」、捕虜を人道的に扱わなかった「戦勝国」では一人も戦争犯罪人が出なかった。これは公平か。いったい戦争犯罪とは何か。

 東北の大震災の被害写真は、私にはまるで絨毯爆撃の後の市街地の光景のようにうつる。しかし、そこで活動するアメリカ兵は、被災地復興のために遣わされた「兵士」である。あの日本全土を空襲し、広島・長崎で放射能をまき散らしたアメリカ人が戦闘ではなく、復旧のために労力をさいている。

 多くの日本人にとってそれは想定内だったのか、それとも想定外だったのか。