【団塊ひとり】「なぜ」と自問、震災体験少女にローマ法王が

なぜ神は「沈黙」しているのか?
 
【読売新聞】より
 ローマ法王ベネディクト16世が、22日放映のイタリア国営テレビRAIのカトリック教徒向け番組に出演し、東日本大震災を体験した7歳の日本人少女からの「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」という質問に答えた。(中略)法王は「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたとともにあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子供たちとともにあります。ともに祈りましょう」などと答えた。

 キリスト教会の最高位にいるローマ法王の率直な答は、若い頃に読んだ遠藤周作の「沈黙」という作品の一節を思い出させた。「沈黙」は、江戸幕府鎖国令を発布した直後に布教のため日本に潜入し、捕らえられ拷問の末、棄教した実在のイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara)をモデルにしたセバスチャン・ロドリゴの物語として描かれる。

 ロドリゴは殉教者になることを夢見て日本に潜入するが、自分が棄教しないことで日本人の信者が拷問を受けていることを知り、苦悶の末に棄教する。その時彼は、神の不在を疑う。神を信仰する者の、このような苦しみを前にして「なぜあなたは沈黙するのか?」と彼は「神」に問いかける。しかし、答は戻ってこない。後にイエスロドリゴを売ったキチジローの顔を通して次のように語りかける。

私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ
弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

 初めてこの文章に接したとき、私にはこの言葉は「詭弁」にしか映らなかった。もし存在したとしても無力な「神」など存在しないに等しい。そして宣教師に「試練」を与えるならともかく、何の罪もない人の生命を「神の名」のもとに理不尽に奪ったり、苦しめたりすることが許されようか、と思っていた。この考えは今も変わらない。

 よく知られているように旧約聖書『創世記』には「ノアの箱船」の話が出てくる。そこで語られる大洪水は、「悪を行う」人類に下す鉄槌として神が下した罰であった。その論法で行くと今回の大震災も何らかの「罰」ということになり、実際にそう述べた人もいる。もちろんそんなことがあるはずがない。「悪人」を懲らしめるときには「自分」を前に出し、「善人」の苦難については、あたかも関知しないように「沈黙」する「神」など、私には理解できない。

 当時の私は芥川龍之介を読んでいて、そのせいか「おしの」という作品の方がよく理解できていた。
「おしの」は15歳の息子の命を救おうと南蛮寺にやってきた貧しい武士の妻の物語である。神父は「しの」の窮状を知り援助を申し出る。そして喜びを示すしのに対して、神父はイエスの一生を簡潔に説明する。が、「しの」は神父の次の言葉を聞いた途端に顔色を変える。それは次のように描かれる。

 神父の声は神の言葉のように、薄暗い堂内に響き渡った。女は眼を輝かせたまま、黙然とその声に聞き入っている。
 「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」
 神父は思わず口をとざした。見ればまっ蒼になった女は下唇を噛んだなり、神父の顔を見つめている。しかもその眼に閃いているのは神聖な感動でも何でもない。ただ冷やかな軽蔑と骨にも徹りそうな憎悪とである。(芥川龍之介「おしの」より)

 そして「おしの」は、次の言葉を残して南蛮寺から去ってしまう。

 「新之丞も首取りの半兵衛と云われた夫の倅でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。このようなことを知っていれば、わざわざここまでは来まいものを、――それだけは口惜しゅうございます。」(芥川龍之介「おしの」より)

 「エリ、エリ、ラマサバクタニ」は旧約聖書の「詩編」の一節で、信者にとってはまた別の解釈があることは知っている。が、信仰を持たない者の心には少なからず「おしの」が存在するはずだ。

 だが、不心得な私にとって神がいようといまいと悲惨な現実を前にすればどうでも良いことのように思えてくる。信仰を持つ者にとっては、時には信仰の危機や、疑問になるのかも知れないが、現実の問題の解決には人間が直接携わらなければいけないからである。「神」のせいにすることなどあってはならない。