【憲法記念日に思う】山崎富栄と太宰治の心中

 5月3日は憲法記念日。その昭和22年誕生の世代を団塊とよぶのなら、ある意味で私たち団塊世代憲法とともに育ってきたようなものだ。その日の日記に、山崎富栄はある作家との会話を、次のように記している。

  「死ぬ気で 死ぬ気で恋愛してみないか」
    (死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……)
  「有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ」
    (うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……)
  「そうでしょう!」
    (奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくては、いけませんわ)
  「それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とてもしっかりしているんだから」
    (先生、ま、ゆ、つ、ば……(後略)「太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実」(学陽書房)より

 山崎富栄は、3月27日夜、屋台のうどん屋で飲酒中の一人の男と出会う。翌年に心中する作家太宰治との「運命」の出会いである。その2ヶ月後の5月に二人は結ばれる。昭和19年に結婚した彼女の夫は新婚わずか10日で出征し、マニラ近辺の戦闘で行方不明になり、そのまま終戦を迎える。だが正式の戦死公報も届かぬまま、不安な月日が流れる。そのときに太宰と出会ったのだ。

 2ヶ月後の七月十四日の日記に彼女は次のように記す。

 親より先に死ぬということは、親不孝だとは知っています。でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がいないという人に出逢ってしまったんですもの。お父さんには理解できないかも分かりませんけど。太宰さんが生きている間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの。あの人は日本を愛しているから、人を愛しているから、芸術を愛しているから。人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しょうとする悲しさを察してあげて下さい。私も父母の老後を思うと、切のうございます。でも、子もいつかは両親から離れねばならないのですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。(中略)お父さん、赦してね。とみえの生き方はこれ以外にはなかったのです。お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。老後を蔭ながら見守らせて下さいませ。私の好きなのは人間津島修治です。

 もうこの時点ですでに死を決意していたように思われる。
 さらに12月30日の日記では次のように記される。

 小説家はつねに美しく真実なものに心惹かれ、そうしたものをあらゆる世界にたずね求めている。(中略)女が一人で生きていかねばならぬということは、その生活様式のいかんにかかわらず、決して普通の意味で幸福といわれるべきものではない。物質的に恵まれ、はた眼には幸福であるようにみえても、その幸福は世間一般に言われるものとは異なった性質であり、ことにその本人自身の内面に立ち入ってみたならば、凡そ満ち足りた豊かな状態からは遠く、寒唆なものがあるだろう。

 社会は、この最も弱いものを同情するよりは、しばしば一種の白眼を以ってみる。(中略)今日の社会は、このようないたましい存在を益々ふやしていくばかりである。(中略)女一人は、孤独な生活者は、愛の対象を手ぢかには持たぬ。いつでも欲するときにとらえて抱擁し得る形あるものとしては持たぬ。しかし孤独なものは愛し得ないか。いや孤独なものこそ最も強く深く愛し得るだろう。ただ彼女等が孤独なままに深い愛の生活を営み得るためには、彼女等の愛の対象を求める領域は、普通のにぎやかな生活者のそれよりも高められ、広げられなければならぬ。女一人の生活のあるものは、それを目がけての不断の闘いなのである。(中略)「女一人」は女一人であることをいとおしみ、愛さねばならぬ。(「太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実」(学陽書房)より) 

 太宰治の文学は「多くの女性の愛と涙と犠牲の上に成り立っている」といわれる。しかし太宰と関係した女性、特に太宰と心中した山崎富栄はあまり芳しい評価を受けているとはいえない。事実、発見当時太宰の遺体はすぐに立派な棺に移されしかるべき所に運ばれたが、富栄の遺体は正午過ぎまでムシロをかぶせられたままほぼ半日の間放置されていた。太宰の父は貴族院議員、兄は青森県の知事。本人は、有名作家。それに対して富栄は妻子ある男と心中した女。才能ある作家を死に導いた悪女。これが通常の評価だと思う。しかし彼女が残した日記の記述を信じるならば、必ずしも彼女に一方的な罪があるようには思われない。

 翌年3月12日に富栄は次のような日記をつけている。 

雨霧がかかって美しい山上の眺め。
 昨夕は悪寒発熱して、ひとしきり寝苦しかった。修治さんもおこたにのぼせて発汗。おねまきを更え、湯たんぽをとり替える。
 今朝は寒気も薄らいで、気分も良く、うれしい。近視なのに無理して眼鏡をかけないでいるので、眼から疲れが頭や肩などにいくらしい。時たま目を開けていられないほどチクチク痛むことがある。
 恋をしているときは楽しくて
 愛しているときは苦しい
 情熱だけでは、ほんとうの恋愛には遠い、理性が加わらねば……。(後略)

 そして最期の日記となった23年6月13日に彼女は次のように記す。

遺書をお書きになり御一緒につれていっていただく
みなさん さようなら(中略)奥様すみません
修治さんは肺結核で左の胸に二度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。
みんなしていじめ殺すのです。
いつも泣いていました。
豊島先生を一番尊敬して愛しておられました。
野平さん、石井さん、亀島さん、太宰さんのおうちのこと見てあげて下さい。園子ちゃんごめんなさいね。(後略)

 今度の大震災以後、しばらく忘れていた「死」というものを考えることが多くなった。もちろん、自殺とか心中とかは無縁である。ただ「生きる」とはどういう事か、「いま現実に生きている」ということは何の意味があるのか、という青臭いことをこの年になってまた、考えるようになった。自分が死んでしまうということ、家族が死んでしまうということ、それらが持つであろう意味に対して今少し真剣に考えなくてはいけないと、私はこの年になってまた考え始めたのである。