【団塊ひとり】東日本大震災と1年後の日本

 関東大震災島崎藤村の小説「食堂」
 
島崎藤村の作品に「食堂」という短編小説がある。1前年関東大震災に遭ったお三輪という60代の女性と、彼の息子新七との家業の「復興」に対する気持ちのすれ違いを描く佳品である。

震災前にお三輪が開いていた三代続いた店は「香、扇子、筆墨、陶器、いろいろな種類の紙、画帖、書籍などから、加工した宝石のようなものまで、すべて支那産の品物が取りそろえてあった」趣味のよい、自慢の店だった。彼女はその店を震災で無くす。多勢使っていた店の奉公人もそれぞれ暇をもらい、彼女は「東京にある身内という身内は一人も大火後に生き残らなかった」子守娘ただ一人とともに「浦和まで落ちのびて」生活している。震災の1年後、小さな料理屋を開いたという息子の手紙で上京してみようと思うところから小説は始まる。

 お三輪は息子が、「小竹」の店の「のれん」を捨てて、以前の使用人と共同で料理屋を開くことに不満である。今回の上京は、その息子の真意を確認するためでもあった。親子の会話を藤村は淡々と描く。

「あの橘町辺のお店はどうなったろう」
バラックを建ててやってはいますが、みんな食べて行くというだけのことでしょう。秋草さんのようなお店でも御覧なさいな、玉川の方の染物の工場だけは焼けずにあって、そっちの方へ移って行って、今では三越あたりへ品物を入れてると言いますよ――あの立派な呉服屋がですよ」
 こう新七は言って、小竹の旦那として母と一緒に暮した時代のことを振返って見るように、感慨の籠った調子で、
 「今度という今度は私も眼がさめました。横内にしろ、日下部にしろ、三枝にしろ、それから店の番頭達にしろ、あの人達がみんな私から離れて行って見て分りました。今度の震災は何もかもひっくり返してしまったようなものです――昔からある店の屋台骨でも――旧い暖簾でも。上のものは下になるし、下のものは上になるし――もう今までのような店なぞを夢に見ているような時じゃありません」(中略)「そんなら、お前さんはもう未練はないのかい――あの小竹の古い店の暖簾に」それを聞いて見たいばかりにお三輪はわざわざ浦和から出て来たようなものであった。お三輪は眼に一ぱい涙をためながら、いそがしそうな新七の側を離れて、独りで公園の蓮池の方へ歩いて行った。暗いほど茂った藤棚の下で、彼女は伜から話されたことを噛みかえして見た。(「食堂」より)

 その後、お三輪は新しい生活は若い人間にまかす決心をして東京に別れを告げる。 

東日本大震災から2ヶ月を過ぎた。関東大震災の時は震災の約4週間後にすでに帝都復興院が設置されて帝都復興計画が提案されている。「帝都」東京をおそった大震災による死者は10万人とも15万人とも言われる。帝都が壊滅し今回の死者数を遙かに上回る未曾有の震災なのに、帝都復興計画が提案されたのは「技術」の進んだはずの現代よりも早い。

 1年後の日本。たとえ親子の意見の違いはあっても、世の中は新しい世界に向かって進み始めてほしい。