【団塊ひとり】もし母親が「認知症」になったなら

 しばらく調子が悪かった。震災後に症状が出た腰痛もまだ治りきっていない。レントゲンで見ると背骨が曲がりそこに神経が触れるようで、そのたびに痛みが起きる。リハビリをしたり、膏薬を貼って、なんとか今は痛み止めの薬を飲まなくてもすむようになった。脚や手先がときどき痺れるのも腰からきているのだろう。最近は運動をあまりしなくなったので、加齢だけではなく生活習慣も原因しているのだろうか。若いときはサッカーの公式戦の審判をしたり、強靱とは言えなくても人並みの体力はあるつもりでいたのに、油断すると衰えが急激に襲ってくるようだ。

 体力が衰えると気力も失われるようだ。本を読むことも、ましてや文章を書く気力も失せてしまう。ぼけっとしていると知人から電話がかかってきた。

 彼も私と同じ団塊世代の一期生。同じような人生を送ってきているので、話はあう。数年ごとに開かれる同窓会でも同席しては、いろいろなことを話し合う戦友だ。

 団塊一期生の同窓会は、まず物故者に対する黙祷から始まる。同窓会が始まると、若い頃は仕事の話、子供の進学、そして「妻」には言えない「男の話」でもりあがったものだ。子供が受験期を迎える頃は情報源として教員が多少もて、子供の自立が終了すると弁護士や医者が話題の中心になる。年をとるに従って、病気と病院の話が多くなり、弁護士の級友は「離婚」や「相続」関係の営業をはじめる。そして後期高齢者が目前になったいま、家族の介護と自分の老後が話題になっている。

 世界有数の高齢化社会になった日本では老親の介護が避けては通れない課題になった。団塊一期生はまだ古い価値観に縛られている人間が多いので、親を「捨てられない」人が多く親の介護は深刻な問題だ。

どれほど幸福に見えても、どこの家にも一つくらいの問題はある。彼の問題は「母親」の存在だ。

 われわれの世代の親は80歳を超えているが、元気に海外旅行しているひともいれば、ほとんど植物状態になっている人も多い。高齢になると若いときよりも個人差が明確になるようだ。100歳を超えて元気でいる母親がいる同級生がいて、彼女自身も水泳教室に通っているので、本来の資質だけではなく自己管理の大切さも必要なのだろう。

 息子にとって元気で穏やかな母親の存在は老後の幸福の一つだ。が、もし母親が子供の頃の「やさしさ」を失って、老醜しか感じられない存在になったらどれほど悲しいだろう。彼の母親がまさしくそうだという。

 彼の母親はいわゆるアルツハイマー。医者に処方された薬を飲んでいるが、最近行動や発言が粗暴になってきて困っているらしい。さらに母にいわゆる人格障害の兆候が見られるとのこと。母は家の中の言動と外の言動の乖離が激しく、その結果友人は家族の、特に妻の言葉が信じられなくなった時期があったそうだ。が、あることを契機に母が嘘を述べていることに気づき、それが病気であることを知って悩んでいるらしい。「まじめ」な彼は「親孝行」という責任と、目の前の粗暴な母親の行動の前に今は自分を見失いつつあるようだ。

 これは人ごとではない。長寿はめでたいことだが、それに伴う「副作用」もまた強いものがある。その副作用に耐え得るか否かはなってみなければわからない。実際に体験しない限り、大震災と同じで「ひとごと」で終わってしまう。

 しかし目の前で自分の母親が次第に溶解していく様を見なければならない彼の苦痛は察するにあまりある。ある意味で私も似たような境遇であるからだ。先日亡くなった長門裕之さんは妻の南田洋子さんの「認知症」をドキュメントで放送したが、認知症になった南田さんの姿と若い頃の落差があまりにも激しく、なぜ公表したのか私にはとても理解出来なかった。放送すべきでは無いとさえ思った。イメージをこわしてほしくなかった。長門の行為は、以前「関係した」とされる女優との暴露本を出した以上の軽挙妄動のようにさえ感じられた。いくら「真実」でも公にしてはならないものがあるのではないか。若い頃の南田さんはどことなく私の初恋の人に似ているところがあるので、なおさらそんな気になったのかもしれない。

 だが母親が「認知症」になることはもちろん、妻が、あるいは自分自身が「認知症」になることはありえることだ。そのときの心構え、処し方、経済的な問題など、「親孝行」「愛妻家」などの個人的「努力」の分野で処理しきれるとは思えない。「肉親」が深く関係していくことにより、より悲惨な状況が拡大することもある。長寿はめでたい。しかし同時に大きな問題も投げかけてくる。いったいどうすれば良いのだろう。共倒れや、親孝行の息子が母親と無理心中という、最悪の結末を避けるためには公共的的な施設の拡充が是非とも望まれる。「明日の記憶」という小説にもあるように、「施設に入れる」ことは「愛する人」と共倒れすることを防ぐためにも、必要ではないか。それは「姥捨て山」の発想とは異なると思う。友人に対して今の私はこういう答しか用意することが出来ない。