【団塊ひとり】菅直人首相が早期辞任を否定 「情報伝達」という神話それとも

 思わず笑ってしまった。そして悲しくなった。次の記事を読んだ後である。朝日新聞の記事だ。

 鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期辞任を否定したことについて「約束したことは守る。当たり前の話だ。それができなかったらペテン師だ」と厳しく批判した。鳩山氏は2日に首相と会談し、不信任案に同調しない条件として「第2次補正予算案の早期編成にめどをつけること」などと明記した確認事項で合意。鳩山氏は首相が6月中の退陣を確約したことを明らかにしていた。
 鳩山氏は3日、東京都内で記者団に「確認事項が守られたら辞任するということが2人の確認だ」と改めて主張。辞任時期を来年年明けだと示唆した首相に対し、「突然言葉をひっくり返すなら、不信任案に賛成しておくべきだったと思う」と述べた。(朝日新聞より)

 「目くそ鼻くそを笑う」ということわざを思い出した。カン首相もそうだが、沖縄問題であれほど恥をさらしたハトヤマ氏なのに、彼には自分が何を言っているかの自覚が無いのだろうか。彼らは自分の行動を客観的に見る「もう一人の自我」(恥を知る自我)を持たないのだろうか。それとも政治家にはそんなものは不必要だと思っているのだろうか。私のように、いつもうじうじして多少「うつ」になりやすい性格の人間にとって、ここまで厚かましい人たちはある意味うらやましい。 

 私は最近日本の古典文学を読み始めている。言葉を大切にする古代人の生き方に共感したからである。古代では、人が発した言葉は現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていた。いわゆる言霊である。だから発言は慎重になり、かつ発言には責任を持った。だが、民主党の首相、元首相の発言からはそんなものは感じられない。たぶん彼らにとって言葉は道具であり、方便なのだろう。

 西垣透という学者が情報について次のような文章を書いている。記事引用と同じ朝日新聞の7年前の夕刊に載った文章だ。

 情報伝達というとき、普通われわれは送受信される意味内容に着目する。そして、情報があたかも小包のように、送り手の心から受け手の心へそっくり送り届けられると考えがちだ。だがそうするとこの二人のあいだの情報伝達は実にあいまいだ。仮に二人が何かしゃべったとしても、表現された言葉だけでは判然としない。「きらいよ」が愛の告白になったり、「愛しておりますよ」が倦怠の表現だったりすることは珍しくないのである。(中略)情報小包の交換、いわゆるコミュニケーションによって、人々の心の中に共通(コモン)のものが形成されるという考えは西洋の伝統である。(中略)オートポイエーシス(自己創出)理論によれば、人間の心とは自律的に動く閉じたシステムである。そこでは、いろいろな「想念」が自己循環的に浮かんでは消える。この理論によれば、人間がある言葉やイメージにふれたとき、小包ではなく、単に「刺激」を受けとったにすぎないのである。刺激のため心は変容するが、変容の仕方は受け手に応じて様々であり、同じ結果になる保証はない。これはうなずけることだろう。よく考えるとわれわれは皆、自分の過去の経験にもとづいて、言葉やイメージの意味を自分勝手に解釈している。だから「情報は伝わらない」のだ……。(西垣透「情報伝達という神話」より)

 「二人」とあるのは「電車の中で見つめ合っている二人」の事だが、私は、まるで西垣氏がカンとハトヤマ両氏のやりとりを透視していたかのような錯覚に陥る。

 よく言われるように国家を船にたとえるなら、首相はその船長だ。船長は船の安全に責任を持たねばならない。船長は強い権限を預けられているかわりに、大きな責任を負っている。船では船長の命令は絶対だ。が、その船長の能力が無かったり、乱心で正常に船を操縦できないとき、「上官」(国民)は船長の指揮権を奪い更迭するべきだ。それは安全かつ効率的な航海の達成のために必要なことだ。浅瀬に乗り上げたり、氷山に衝突するような不測の事態を防ぐためにも必要なことだ。。

 最近の民主党の迷走ぶりはあまりにもひどすぎる。しかし、それを追求する野党もあまりにも能がない。野党は批判するだけではなく、代案を出し震災復興の具体的な方策を明確にし、あわせて政権交代後の世界を国民に示すべきだ。それをしない限り民主党と同様の無責任な政党と思われても仕方がない。

 日本丸はいったいどこに行くのか。総選挙が出来ないいま、むなしさだけが募る毎日である。