【団塊ひとり】再び石巻市の花火大会  鎮魂と復興の時

 石巻市の「花火大会」が近づいている。
 4月2日のブログで、私は次のような感想を記した。 

 父が生きていた頃、連れて行ってもらった北上川の花火大会は、半世紀以上もたつのに、今でも父の面影と共に心に焼き付いて離れない。花火はその「はかなさ」によって、むしろ形あるものよりも強く人の心に残る。私にとって花火大会は、父の思い出そのものだし、石巻市の歴史が途絶えることなく続いているという証そのものだ。是非成功してほしい。被災地であるからこそ「花火大会」を実行する意味があるのだ、と私は強く思っている。

 瞬間に散ってしまう花火。しかし、それ故にこそ人々は花火の打ち上げられた夜をいつまでも記憶するだろう。そして「はかない花火」は、石巻市の復興に向けての記念すべき、「心のモニュメント」として記憶され、いつまでも語り継がれるだろう。


 8月になると被災地で花火大会が実施される。が、今年は観光のためというよりも多くは鎮魂が目的になると言う。また観覧場所も高台などに制限されるという。外部の人間は遠慮すべきなのだろうが、私は参加することに決めた。例え輪の中に入れてもらえなくても、わずか数年でも石巻で生活したのだから、遠くからでも私は鎮魂の場に居合わせたいと思う。

実は少し前に石巻に在住の恩師からかまぼこをたくさん送っていただいた。50数年前に担任をしていただいた先生だ。被災後にお送りしたものに対する「返礼」だと思う。妻は被災地の人にこんな気遣いさせてと、ちらっと私を見る。だが石巻で生産されたかまぼこを見て、私は確かな復興への歩みを感じることが出来た。何でも良い。石巻で生産されたものを購入して家に送ろう。これも今回の「旅」の目的の一つだ。

 震災後、すぐに安否を知りたかったが電話は繋がらず、手の施しようのない状態であった。そのうち新聞社や放送局が避難所の名簿を公開し始めたので、それで名前を探すことにした。が、PDFによる画像がほとんどだったので、探すのに苦労した。ある掲示板に助けを求めた。

 やがてその掲示板を通して先生ではないかという情報が寄せられた。お孫さんの友人が情報を載せてくれていたのだ。その人を通して先生の生存が確認された。うれしかった。電話が回復するという情報を知って早速電話を差し上げると、電話回復後の最初の話し相手だとおっしゃった。80前後のお年だし、がんばれとも言えず辛い話を聞くわけにも行かず、早めに切り上げた。

 4月の下旬に先生からお手紙と河北新報の新聞が送られてきた。お手紙には想像を絶する体験が記されていた。が、ご家族が無事であったことも記されてありうれしく思った。新聞には震災の爪痕とともに復興にかける人々の強い意志が力強い文章で表現されていた。

 幸いなことに先生の家は完全崩壊は免れたようだ。1日にはお会いできる約束も出来た。小学校時代の私の話も聞きたい。私はどんな生徒だったのか。そしてクラスメートはどうしているのかも。

 石巻では旅館がとれなかったので、仙台で泊まることになった。仙石線もまだ全線開通には至っていない。行ってみなければ分からないことがある。腰痛持ちの今の私には、本格的なボランティア活動は出来ない。しかし、今の石巻の姿を目に焼き付けておきたいという気持ちは強い。関西にいて出来ることは何かも見つけたい。なにかあるはずだ。

 私の住んでいる関西ではもうあまり震災のことを語る人は少なくなった。しかし、私にとっては1日の花火大会の日がスタートになる。私にとっての「震災」はまだまだ終わらない。

 ところが昨日から身体の調子が悪くなった。9度近い熱が出た。医者に行くと久しぶりに点滴を受けることになった。点滴は今まで何度も経験があるので安心して目をつむっていたら、看護婦さんがうーんうーんとうなっている。チクッと来ていたのでもう始まったのだと思っていたので、なんだろうと目を開けると、看護婦さんがベッドにちらばった血を拭いている最中。魚くんではないが思わず「ぎょぎょぎょ」と叫びたくなった。まだ始まっていなかったのだ。この血はなんだ。たかが点滴でこんなに血が飛び散るものなのか「ぎょえぎょえぎょええええ」

 見かねたのかほかの看護婦さんが代わってくれて点滴は無事完了した。しかし、その前に精密検査のために採血した左腕は何度も失敗したためか、いまでも腕が痺れている。私はもしかしたら練習台だったのかもしれない。

 旅館も予約している。今は体力が回復することを願うばかりだ。