【団塊ひとり】大阪タンクローリー事故、運転手ら2人不起訴 「正義」とは何か?

今朝の読売新聞に次の記事が掲載されていた。

 大阪市浪速区で5月、タンクローリーが歩道に乗り上げ2人が死亡した事故で、大阪地検は22日、自動車運転過失致死容疑などで逮捕され、処分保留で釈放されたタンクローリーの運転手(55)ら2人を不起訴(嫌疑不十分)にした。
 この事故では自転車で道路を横断し事故を誘発したとされる男が起訴されたが、直接の当事者は刑事訴追されない異例の展開になった。
 事故は5月12日朝、国道25号で発生。地検は自転車の無職・越智茂被告(60)が信号機のない場所を十分に安全確認せず横断したことで乗用車に急な進路変更をさせ、さらに乗用車を避けようとしたタンクローリーが歩道に乗り上げたとして越智被告を重過失致死罪で起訴した。
しかしタンクローリーの運転手と乗用車の運転手については①明確な前方不注意や大幅なスピード違反がない②自転車の横断や乗用車の車線変更に気づいた時点でそれぞれ相手との距離が短かった。などから、「事故回避のため、やむを得ない運転操作だった」と判断した。(中略)大阪府警の取り調べでは「乗用車を避けずにそのままぶつかれば、死なせることはなかったのではないか」という質問をされたという。(後略)           (2011年7月23日 読売新聞)

 不起訴に対して遺族は当然「納得がいかない」とコメントしている。遺族の「感情」としては当然だろう。この判断にはたして「正義」は存在するのだろうか?

 この事件とその不起訴処分は、すごく哲学的な判断だったように私には思われる。多くの人が2010年4月にNHK教育TVで放送された、ハーバード大学マイケル・サンデル教授の授業を思い浮かべたかもしれない。私は大阪府警での「乗用車を避けずにそのままぶつかれば、死なせることはなかったのではないか」という質問にそれを強く感じた。それについて遺族の感情をひとまず除外して考えてみたい。

 サンデル教授は公開講義の第1回で「犠牲になる命を選べるか」と題して次のような仮定を提出する。自分は路面電車の運転手である。100キロで走っていたところ前方に5人の労働者がいるのに気づく。しかしブレーキがきかない。ところが右側に待避線があるのに気づく。そこには一人の人間しかいない。一人は犠牲になるかも知れないが、5人は助けられる。そのような状況ではあなたはどう行動するか。サンデル教授が質問する。

 それに対して多くの学生が「ハンドルを切る」と解答した。つまり5人を助けるために1人を犠牲にするのはやむを得ないと判断したのだ。次にサンデル教授は状況を変更して、再び学生に問いかける。

 今度は自分は橋の上から同じような状況を見ている。5人の命を救うためには自分は何をなすべきか。そう思ったとき隣に「太った男」がいるのに気づく。そしてこの男を突き落とせば、その騒動で5人の人間の命が救われることに気づく。サンデル教授は質問する。この男を突き落として5人を救うのは果たして正義と言えるのか。

 今度は大多数の学生が賛成しなかった。そしてサンデル教授が学生を挑発する。「おやおや、多数の命を救うためには少数の犠牲はやむをえないとした先ほどの考えはどこへ行ったのだ」そして学生たちは様々な意見を発表する。日本ではあまり見られない講義スタイルで羨ましかった。日本人の学生なら「自分が犠牲になって飛び降りる」と答えてサンデル教授を驚かせていたかも知れない。事実、東日本大震災における数多くの自己犠牲者の存在に教授は深い感動を寄せていたからである。

 今回のタンクローリーの歩道乗り上げ事件を、サンデル教授の手法にならって考えてみたい。
もし人間に、ある動作を開始すると同時にその結果を確実に予見できる能力が存在しているとしたらどうだろう。もち論そんな人はいないのだがあくまで仮説として考えてみたい。そしてより少数の人間を犠牲にすることで多数の生命を救うことが「正義」だという考えが肯定される社会に生きていると仮定しよう。

 もしそのような社会に生きていれば、乗用車の運転手はためらいもなくハンドルをきらずに信号を無視した自転車をはねるだろう。そうすれば自転車の運転者は死亡するかも知れないが、何の落ち度もない路上の2人の命は奪われなかった。つまり1人のいのちを「犠牲」(といっても状況は本人がつくりだしたものであるのだが)にするだけで、何の落ち度もない2人の命は救われ、タンクローリーの運転手を巻き込むこともなかった。つまり「仮定した社会」では、この行為は「正義」ということになる。しかし、突然の自転車の出現はともかく、それを避けるための回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することは実際上不可能である。「仮定」ではない「現実」の我々の社会は、例え信号を無視した自転車であろうと、ブレーキも踏まずに「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とは普通みなさない。

 続いて大阪府警の質問のように、急に車線変更した乗用車を避けようとしたタンクローリーの運転手が乗用車に、そのままぶつかるという方策はなかったのか。私も運転者の端くれなので思うが、とっさの間にそのように行動することは不可能だ。そして乗用車の運転手と同じように、回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することも不可能であるといえる。2人の存在に気づかなかったとしても、とっさに行動せざるをえなかった運転手を責めることは出来ない。もしぶつけていれば、乗用車の運転手が死亡する可能性も高い。

 我が国の刑法には、例え加害行為と損害の間に因果関係があったとしても、行為者に故意・過失がない場合には、行為者にその損害賠償の責任を負わないとする「過失責任の原則」が認められている。それに従えば、遺族の納得は得られなかったとしても、大阪地検の判断は、少なくとも我々の法律の「正義」に基づいたものだといえよう。

 この場合の「不正義」は明らかに、安全確認をせずに自転車で道路を横断し、事故を誘発した人間である。タンクローリーの運転者は読売新聞の取材に対し「自分の運転する車で2人が亡くなった事実は変わらない。被害者、遺族に申し訳ない」と語ったそうだ。気の毒でならない。

 最近の自転車運転の「無法性」は目に余るものがある。厳しい取り締まりで、ひったくり日本一の汚名を返上した大阪府警は、自転車マナー向上の啓蒙活動に励むと同時に、自転車の悪質な違反を見逃さず摘発して同じ悲劇が繰り返さないように努力してほしい。

【追記】私の文章についてあるブログの執筆者(「葛の葉」)から激しい反論があると友人が知らせてくれた。読んでみると肝心のところですれ違いがあるようだ。読売新聞も私もブレーキ操作について触れていないが、それは当たり前のことだからだ。私も接触事故を起こした事があるが、その時に警察がまず確認したのはブレーキ痕の有無であった。いやしくも「運転手の端くれ」なら普通は本能的に急ブレーキを踏む。警察もきちんと調べる。当たり前すぎて触れなかったが、この点だけは誤解の無いようにお願いしたい。