【団塊ひとり】石巻市の花火大会に参加、前向きに生きる人々に力をいただく

 8月1日、大げさに述べると、3.11以後、私の「宿願」になっていた石巻の「花火大会」に参加できた。55年前の担任の先生にもお会いでき個人的には充実した一日になった。町は着実に復興が進んでいるように思われたが、ひとたび港に降りてみると、もう4月以上になるのに、まだまだ手つかずの光景が残っていて心が痛む。満ち潮になるとまだ浸水する地域があるそうだ。

 55年前に担任をしてくださった先生にも再会できた。さいわい家は床下浸水ですんだとのこと。不幸中の幸い。

昨年は3日間で34万7000人が来場したという「石巻川開き祭り」も、今年は約55000人と昨年より参加者は少なかったようだ。

 私は現地へは仙石線を利用したが、松島駅から代行バスに乗ったときも、予想外に人数が少ないと思った。仙台に宿をとった関係で花火大会の途中で帰り、「新潟県中越地震の復興のシンボルとなった花火「フェニックス」」(河北新報)を見ることが出来なかった。帰りの代行バスも空席が目立っていた。やはり津波の影響なのだろう。

 私も最初は高台から鑑賞するつもりだったが、結局、花火を川岸の思い出の場所で眺めることにした。「たわらや」という名前のレストランで、そこは半世紀前に父と見た場所である。が、もう建物はなかった。ただ草が生い茂っていたので、もしかしたら津波以前に店はなくなっていたのかも知れない。しかしもはや確認するすべをしらない。

 人混みの中にいると、ときどき「いま津波が来たら全員死ぬね」という言葉が聞こえてくる。やはり津波の記憶が頭から離れないのだ。私自身も「もし津波に流されても、自分は後悔していないから」と物騒な言葉を家族に残してきている。すぎてしまえば芝居がかった大げさな言い方だが、出発前は本当にそう思っていた。原発事故とは違い「天災」はどんな形でくるか予想できないからだ。

 帰りに仙台駅で河北新報を購入した。そこには次のような記事があった。

 石巻川開き祭り(実行委員会主催)は1日夜、東日本大震災の犠牲者の鎮魂と復興への願いを込めた花火大会が宮城県石巻市内で行われた。「祈り」と「希望」をテーマに、被災地の夜空に色鮮やかな大輪の花が咲き誇ると、見物人の間にはため息と歓声が交錯した。
 旧北上川に浮かぶ中瀬公園が打ち上げ場所となり、周囲には多くの市民が詰め掛けた。大会には全国から支援が寄せられ、新潟県中越地震の復興のシンボルとなった花火「フェニックス」の縮小版など計約4500発が次々と打ち上げられた。
 例年は東北最大級の花火大会として同市開北の河川敷で約1万6000発を打ち上げていたが、ことしは規模を大幅に縮小、近隣に仮設住宅があることから会場を移して実施した。(河北新報より)

 私にとって晩年の一つの区切りがついた。多少やけになった時もあったが、残り少ない人生をより自覚的に生きようという気持ちだけは強くなった。