【団塊ひとり】辞任しない菅首相、4年待つべきか?安吾の「堕落論」再考

 カン首相は、結局やめる気がないようだ。「めど」が立てば辞任、というのも人の目をくらます得意の言い方で、ハトヤマ元首相と見事なタッグを組んで国民、マスコミだけではなく自らの党員も欺いたのだ。いや、民主党員も騙された振りをしていた可能性もある。俗に政治は「信」なくんば立たず、といわれるがまさに「信」どころか「姦」が蔓延している。だから一刻も早く辞任してほしいと思っていたが、石巻に行ってから少し考え直すようになってきた。

 私の友人が菅首相の「お庭番」と評する朝日新聞が次のような記事を載せている。

【記事引用】 
菅首相政権運営「4年があるべき姿」=普天間合意の実現目指す

. 衆院予算委員会は8日午前、菅直人首相と関係閣僚が出席して外交・安全保障に関する集中審議を行った。首相は衆院解散・総選挙について「大震災(への対応)、原発事故の収束がこれからも必要な中で、ほとんどの国民は今ではないだろうと思っている」と指摘。その上で「(衆院選で)多数を得た政党なり政党連合がきちんと(政権運営を)4年間やって、4年後に国民に信を問うのがあるべき姿だ」と強調した。自民党高村正彦元外相への答弁。
 自らの進退に関しては「震災復興と原発事故収束に一定のめどを一日も早くきちっと付けて次の世代に(責任を)移していきたいという思いは一切変わっていない」と述べた。同時に、退陣条件に掲げた特例公債法案と再生エネルギー特別措置法案を念頭に「具体的法案も(一定のめどに向け)前進してきている」とも語った。(朝日新聞 8月8日)

 いま復興の妨げになっているのはカン首相であることはまちがいない。だが、上記の記事を読む限り、彼にはやめる気持ちはさらさら無い。むしろ、やめるそぶりを見せることによって妥協をひきだし、問題のある法案を押し通そうとする魂胆がはっきりと見えるようになった。その法案も一私企業の利益を優先するものであり、また原発輸出に関して外国勢力と結託している可能性がある危険な法案である。首相の「辞任」と交換に安易な妥協はするべきではない。第一、法案が成立しても首相が辞任する可能性はない。

 東日本大震災、特に津波のもたらした光景は、空襲の後の、あるいは原爆投下の後の光景と非常に似ている。それほどの大きな被害を受けたのだから、中途半端な復興ではいけない、と思うようになった。

 だから、あえて今の政府をあてにするべきではない。安易な妥協をするより、今は地方自治体や民間が出来る限りのことを、政府より先にやってしまおうでは無いか。そして政府や永田町の政治家どもをあわてさせようではないか。

 例えば、国民が1億人いるとしたら、一人1円募金しても1億円。10円なら10億円。缶ジュースを1回我慢すれば120億円が集まる。それらを赤十字などを通さず、直接被災地の自治体へ届けよう。例えば、私の寄付先は宮城県である。ぐずぐずしている赤十字義援金を他国へ拠出する可能性のある日本ユネスコなどはあてにならない。

 最近、敗戦後に坂口安吾が記した「堕落論」の文章が気にかかるようになった。安吾 は述べる。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(坂口安吾堕落論」より)

 もしかしたらカン首相が居座り続けることは朗報なのかもしれない。財源の確保も考えず、口先だけの甘言で国民を釣った民主党のような政権に二度と騙されないためにも、その代償として国民は骨の髄まで苦労すべきなのかも知れない。

 安吾の述べるように我々は「正しく堕ちる道を堕ちき」り「自分自身を発見し、救」うために、今は苦労を「やせ我慢」すべき時なのかもしれない。