【団塊ひとり】韓流支持、あるいはノーモア韓流とは何か。ドラマと政治の関係

 「韓流」はアメリカではゾンビ・ウエーブと呼ばれているそうだ。まともに論じるには値しない、という姿勢だろう。しかし日本では違うようだ。

 私がいわゆる「韓流」と呼ばれる作品にはじめて接したのは、やはり「冬のソナタ」だった。あの作品は素直に見ることが出来た。

 「冬のソナタ」の最初の印象は作品に流れる奇妙な「懐かしさ」だった。団塊の世代にとって「冬のソナタ」は、今まで抱いていた韓国のイメージというより、むしろ忘れ去られようとしていた過去の日本の懐かしいイメージが感じられた作品だった。私は「冬のソナタ」を韓国のドラマとしてではなく、古い日本のドラマとして接していたような気がする。作品のストーリーが、山口百恵の「赤いシリーズ」のある作品に似ていたためかもしれない。ともあれ、私は「韓国ドラマ」であるにも関わらず、日本的なものを感じ取っていたような気がする。だから、韓国人社会を描く純粋な「韓流」ドラマは、以後ほとんど見ていない。見ても長続きしなかった。私はあのとき、確かに朝鮮人について一種の新鮮な「好意」を感じていたように思う。

 団塊の世代の一員である私が抱いていたそれまでの韓国・朝鮮人のイメージは、反日姿勢を貫いた李承晩大統領のイメージにつきる。私が韓国・朝鮮人にたいして抱いている、無法・狂気・人間性の欠如・あまりにも低い文化水準、日本転覆を常にもくろむ危険な存在という意識は、この李承晩による朝鮮人像が身にしみこんでいるからだろう。

 李承晩はアメリカに占領され、独立国として行動できない日本の隙をねらって違法に李承晩ラインを設定し、公海にも関わらず「李承晩ライン」内で操業したという理由で、日本人を数十人銃撃で死傷させた張本人だ。それどころか、済州島四・三事件では自国民を数万人虐殺している。だから、彼の暴力性は日本人だけに向けられたものでは無いのかも知れない。しかし、自国民さえ大量に虐殺するという行為は、ますます「朝鮮人の凶暴さ」という意識を私に植え付ける結果になった。日本文化を禁止したり、占領により主権を喪失した日本の混乱期に乗じて、「火事場泥棒」的に、無法に竹島編入したのも李承晩である。それだけでは無く、「対馬も韓国領土」「沖縄は歴史的に韓国固有の領土である」であると主張したりした人物だ。もっともある大学教授は、イエスキリストは韓国人と言うことを信じているらしいので、彼らの主張に驚く方がおかしいのかもしれない。いったい彼らの歴史認識はどうなっているのか。ともあれ、李承晩は私の「朝鮮人」観を決定づけた人間だった。

 しかし、今回フジTVを中心とした「ノーモア韓流」の動きは私には理解できないところがある。「韓流」はすでに過去のものという認識があったからだ。あるスポーツ新聞は「日本を返せ!」などと、扇情的な見出しをつけたが、滑稽だ。ドラマの質で見る限り、韓流ドラマはマンネリでもう下り坂である。消耗品のような日本のドラマと比較するのではなく、まともな日本の良質なドラマと比較すると、もはや比べものにならない気がする。だから、いまごろ「韓流」が問題になるのは、きっとTV局の韓国支配という政治的側面で見過ごすことの出来ない問題があるからではないか。

 視点を変えてみよう。例えば、原発報道の問題。もし報道機関が電力会社から多額の「広告代」を受け取っていたら、それが報道姿勢に影響することは無いだろうか。自動車会社をスポンサーにした番組で、自動車事故や自動車を扱った犯罪を進んで取り上げるだろうか。お菓子メーカーをスポンサーにする番組で、制作者がグリコ事件のような内容のドラマを進んで制作するとはとても思えない。同じように外国から大量の「資金」を調達してもらっていたら、その国のイメージを損ねるような報道が出来るだろうか。もし、そういう事態が生じているならばこれは大きな問題だ。まして政権を握っている政治団体が、韓国・北朝鮮と深い関係がある団体と金銭授受だけでも、常識以上の関係を保っているいま、フジTVの「韓流」問題は意外に大きな問題を秘めているのかもしれない。事の真偽は分からないが、一部のマスコミが報道するように、ツイートしたぐらいであるタレントを解雇したとするならば、この問題の根は深いと見るべきだ。