【団塊ひとり】阪神淡路大震災と東日本大震災と復興庁

 早いもので阪神淡路大震災が発生してもう17年になる。大雑把に言うと神戸の住民でも高校生以下は、震災を直接経験していないことになる。しかし、その時の経験や、記憶は若い世代に受け継がれ、昨年の東日本大震災でも様々な形での支援を可能にさせた。新聞記事を引用する。

阪神大震災>追悼式に石巻市民も参加
 神戸市の東遊園地で17日あった阪神大震災の追悼式には、東日本大震災で被災した宮城県石巻市で活動するボランティア団体「チーム神戸」の無料バスツアーで15日に神戸入りした石巻市民36人も参加した。最年長の参加者、西條定夫さん(85)は「二つの震災で亡くなった方の分まで生きていきますので安らかにお眠りください、と願いを込めて黙とうしました」と話した。
 西條さん方の平屋建て住宅は津波で天井まで浸水した。家族は無事だったが、同じ町内では30人以上が死亡し、避難所での生活は昨年12月まで続いた。チーム神戸に自宅の泥かきを依頼した縁で、妻実子さん(81)とバスツアーに参加した。
 追悼式で、西條さん夫妻は午前5時46分の発生時刻に合わせて黙とう。竹灯籠(とうろう)に献灯し、手を合わせた。阪神大震災前年の94年に神戸を旅行したという実子さんは「石巻に戻ったら、神戸では多くの方が亡くなられたが、復興したと伝えたい」と話した。(毎日新聞より)

 同じ大きな災害を受けた地域同士の結びつきが感じられる。そして神戸の復興が東北に「夢」を与えることが理解できた。が、総体としてみると ボランティアの数や、復旧の速度などはどうしても東日本大震災の方が遅延しているような印象を受ける。もちろん、規模や被害地域の広大さ、東北という地理的条件、また実行部隊としての市役所などの公的機関の崩壊による基礎資料の不足などという特殊条件もある。私も阪神淡路大震災でボランティアのまねごとをしたが、表面的な比較をすると被害は遙かに東日本大震災のほうが深いように思われた。その大きさが復興の支障の一つになっていることは間違いない。が、勿論それだけではない。

 夏に石巻の恩師を訪ねたとき、復興の遅さについて、恩師が「都の人は、いまだに東北人を荒夷と思っているのだろうか」とポツリと漏らされたことが忘れられない。思ってもみなかった発言だ。しかし私が石巻から関東に転校したときに、教室で紹介されたあと、まだ立っている私に突然担任が、「自動車」と言ってみてとか、詳しくは覚えていないがいろいろな単語を発言させたことを今でも覚えている。クラスメートの前で「意味のない」発言を強制させられたことに小学生の私は深く傷ついた。もう50年以上も前のことだが、その時の「屈辱」感は未だに残っている。もちろん、教師は「深い」意味もなく尋ねたのだろうが、もしそうだとしたら、むしろ差別性はより深いものであるかもしれない。

 「金がすべてではない」とは多くの人が口にする言葉だ。が、すっかり関西人となった私が被災者の立場なら、「同情するなら金をくれ」と叫んでいるかも知れない。東北人は声高に叫ばないけれども追い込まれている被災者は多いのではないか。それにしても我々の義援金はどうなったのだろう、また、多額の寄付を申し出た人たちは本当に寄付をしたのだろうか。それらはどのように使われたのか。有効に使われたのだろうか。最近は寄付も少し滞っているらしいが、義援金の活用状況をもっと公開すれば、再び人々の注目は高まっていくはずだ。 

 予定通りゆけば2月には復興の司令塔となる復興庁が発足する。残念ながら本庁は東北ではなく、東京に置かれるが、担当大臣や役人は出来るだけ現地に足を運び、復興の行方を肌で感じ取ってほしい。現地の状況を文字で理解するのと、肌で感じるのとは想像以上に大きな隔たりがある。そして、復興特区を設置するのなら、現場を熟知したプロによる運営が必要だ。さらに、中央のマニュアルに束縛されない柔軟な対応を現場の責任者に任せるべきだ。

 復興の遅れの原因の一つに、民主党の「政治主導」の方針がある。官僚や公務員という行政のプロと比較すると、失礼ながら国会議員の多くは「素人」である。それを自覚しないで出しゃばったり、逆に「素人」であることを免罪符にして、力不足を正当化したりして復興を遅らせることがあってはならない。ましてや高圧的な発言で辞職した松本復興相のような態度では東北の復興はおぼつかないことを自覚すべきだ。またハトヤマ首相のような無責任な二枚舌も、復興には百害あることを理解すべきだ。そして今までの政治による遅れを取り戻して一刻も早く東北に「春」をもたらしてほしい。