【団塊ひとり】東日本大震災1年、被災者の「笑顔 」と祖母の涙 

 地球の自転に影響を与えるほどの未曾有の大震災が発生して1年が経った。先月、介護保険証を受け取り、定年後5年続いた再雇用も終わって毎日が日曜日状態になった私は、朝からTVの前にへばりついていた。が、途中で気分が悪くなりTV視聴をあきらめ、録画に切り替える羽目になった。

 確かに、番組が始まる前、各TV局はテロップで「このあと流れる映像には津波地震の映像が含まれます。「PTSD・心的外傷ストレス障害」を引き起こす可能性がありますので体調が悪い方、子どもがいる家庭での視聴には注意をお願いします」という注意書きを流していたが、震災当日現場にいたわけでもないし、知人が亡くなったわけでもないので全く気にしなかった。それでも気分が悪くなった。だから、直接被害を受け、肉親を亡くした人はいったいどのような気持ちでこの映像の「洪水」を見るのだろうか。  

 しかし、映像に出てくる「被災地」の人々の顔が必ずしも「暗くない」ことにある意味で安心する。レポーターの声の方がなんだか、沈鬱で多少演技的だと思うほどである。「被災者」は、レポーターの繰り出す辛い質問にもきちんと答え、感謝を忘れない。レポーターはその「感謝」の言葉を聞いて、マニュアル的な感想を述べている。なんだかやりきれない。神戸の震災の経験からいえばレポーターにくってかかる人もいたはずだ。ボランティアにも様々な人がいるので、怒りをぶつける人だっていたはずだ。神戸では支援物資を受け取ることを当然と考え、様々な注文をつける人も多かった。いくら我慢強い東北人といっても、これほど復興が遅ければ文句の一つが出ても当然だ。もしかしたら、私が見なかった部分で報道されているのかも知れない。が、画面に登場する東北人はみな和やかに運命に堪えているように見える。

 明治生まれの私の祖母はいわゆる士族の出身で、その事を自慢することはなかったが、武士の娘とはこのような人かと思わせる人で、幼い私は煙たかった。だいいちに大声で笑った姿を見たことがない。どんなに疲れていても、祖母は横になった姿は見せなかった。無駄口はいわず、いつも正座である。軍人だった父が特攻隊に「志願」したときに撮した家族の写真でも祖母はほとんど無表情のように見えた。日常生活でも祖母は、文句も言わず、幼い私にとってとても甘えられるような存在ではなかった。

 私の父、つまり祖母にとっては息子が事故でなくなり、葬式をしたときのことを今でもはっきり覚えている。私の母は子供心にもどうかと思えるほど取り乱して、父の遺体にしがみついて泣いていた。私は、きれいに修復された父の顔をじっと見つめていた。が、その時も祖母は少しも動じなかった。子ども心にもなんと冷たい人だと思った。

 が、父の遺体が焼却され、小さな箱に収まって家に戻ってきた夜のことだ。皆が寝てしまったのになぜか私は起きていて、父の遺骨の置いてある部屋に行ったときだ。その時、私は祖母が父の遺骨を自分の膝に置き身体を丸めて声を殺して泣いている姿を見てしまった。もちろん、私は祖母に知られないように自分の寝床に戻った。その時に私は祖母がどういう人であったかに初めて気づいた。今は祖母に冷たくしていたことに対する後悔の気持ちでいっぱいである。

 レポーターに対して明るく受け答えをして、なくなった家族の話をする人を見ると、私はすぐに祖母を思い出す。そして、一人だけになった夜、その人も私の祖母のように誰にもきづかれないように泣いているのではないか。そう思うとやりきれない。

 地震津波は天災である。が、復興の遅さはもはや人災である。いや、犯罪と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。被災地の人々はもっと怒っていい。まして東京電力の賠償金に税金を課すに至っては言語道断の所業である。「絆」という言葉は、民主党政権や役人には伝わらないようである。

 被災地がいつまでも「被災地」ではなく、夢をはぐくむ「復興地」と呼ばれるようになるのはいつのことか。