【団塊ひとり】長崎ストーカー殺人、またも警察の対応不備、なぜ対応が遅れるのか?

 昨年12月、長崎県西海市で起きたストーカー殺人事件で、千葉、長崎、三重の3県警は妻と母を殺害された山下誠さん(58)の三女(23)がけがをしていると知りながら、千葉県警習志野署が傷害事件での立件が遅れたことなど、3県警の対応の不備を認める検証結果をまとめた。
 捜査関係者への取材で4日わかった。
 3県警は4日、一部遺族に対し、検証結果の報告を始めた。5日にかけて他の遺族にも報告した後、検証結果を公表するとともに、各県警間の情報共有などを軸とした再発防止策を明らかにする。
(読売新聞3月5日より)

 なぜこうも同じような事件が起こるのか。事件の発生だけではない。警察の対応もマスコミの対応もまるでビデオを見ているように同じである。

  警察は反省する。「厳密に検証してみれば」「今思えば」「都道府県警の連携が足りなかった」
「情報の共有が足りなかった」「二度と同じような事件を起こさないように努力する」・・・・

 マスコミ報道も、これまた今までのストーカー殺人事件に対する「常套句」で満ちあふれている。ネットで適当に拾ったものをあげてみる。 
 
ストーカー殺人で3県警、連携不足を遺族に謝罪 読売新聞
警察への相談の対応、見直し指示 警察庁長官が訓示(朝日新聞)
「原点に立ち返れ」=長崎2女性殺害で警察庁長官(時事通信)
長崎2女性殺害 ストーカー相談軽視 たらい回し 連携甘く(産経新聞)
ストーカー対応の不備認める 長崎の事件で3県警(朝日新聞)
連携など対応不備認める=3県警幹部、遺族に謝罪―検証結果公表・長崎2女性殺害(時事通信)
3県警“たらい回し”「連携不備」認め謝罪 長崎ストーカー殺人 スポニチ

 そして識者のコメントも以前から何度も見たようなものばかりだ。

 「犯罪被害者の問題に詳しい常磐大大学院の諸沢英道教授(刑事法)は「ストーカー犯罪で『遠くに隔離したから危険が低くなった』という考えは誤り。警察は横断的に対応する態勢を構築すべきだ」と指摘した。」(産経新聞

 警察の「反省」もマスコミの報道も識者の発言も至極まっとうなものだ。しかし唯一欠けているのは「責任をとる」「責任をとらせる」という姿勢だ。警察官でいえば、誰でも持ってほしい世の中の秩序を守ろうとする情熱・正義感・責任感の欠如だ。マスコミ報道による限り、今回の事件の責任を感じて引責辞任した署長や警官は今のところ一人もいないようだ。家族から見れば今回の「警察」の不手際から殺人が起きたのだから、警察の対応は「万死に値する」ほどひどく残酷で冷たいものだ。被害者はいわば「見殺し」にされた。単なる謝罪程度ですませられるものではない。埼玉県桶川市でストーカーが女子大生を殺害した「桶川ストーカー殺人事件」を契機に、作られた「ストーカー規制法」の精神が生かされていないことに、私はいらだちを感じる。

 私は米国のような訴訟社会は好まない。TPP締結に不安を抱く理由の一つは、米国流の弁護活動が主流になって日本社会が米国並みの訴訟社会になるのではないかと危惧しているからだ。が、少なくともストーカー殺人を予防するためには、無責任な対応をしたものを厳しく処罰することが必要なのではないか。そのためには訴訟もやむを得ない。訴訟が頻発し、いい加減な対応に対する責任が厳しく追及されるようになれば、それを避けるために対応も慎重になるだろう。自分には「関係ない」と思うから真剣に対応しないのだ。不誠実な対応をすれば、それ相応の処罰があることが分かれば人間は必ず変わる。悲しいがこれが現実だ。

 それにしても、日本はいつから政治家も公務員も、東京電力のような「民間」会社も、平気で責任を曖昧にしてしまうような社会になったのだろうか。責任をとるべきものが一人もいないような体制。すべてがうやむやになってしまう。ひいき目に見ても、多少危険な要素が感じられる橋下大阪市長がいま多くの人々の支持を受けているのは、そのような曖昧で無責任な社会に風穴を開けようとしているからのように思われる。橋下市長は特殊で閉鎖的な社会の中では「あたりまえ」と思われていたことを、普通人の感覚に戻そうとしているように見える。月2回しか出勤しなくても民間の平均よりも数百万も多く収入がある市バスの運転手。拾得物の現金を猫ばばする職員、勤務時間中に政治活動に専念し、人事にまで口を出す組合。それと癒着していた市長。今まで選挙民が知らされなかった実体が次々と明らかになっている。だから、反橋下側が「ハシズム」「独裁者」と決めつけても、選挙民の多くは踊らされず支持しなかったのだ。

 少数者である武士が尊敬されたのは、権力を振り回しただけではなく、いざというときは潔く責任をとって腹を切ったからである。それだけの覚悟を持って仕事に当たったから尊敬を受けたのだ。その気概を今の世の指導者や「世の秩序を守るはずのもの」に求めるのは無理なのだろうか。