【団塊ひとり】ストーカー殺人に思う 情報の伝え方と伝わり方 

 3.11では情報の伝わり方、とらえ方によって180度異なる結果が出た場合が多い。読売新聞政治部次長松永宏朗氏が「伝えること伝わること」という文章を書いている。仙台港に近い日鉄住金建材仙台製造所の責任者が携帯電話で得た情報に基づき従業員を避難させ、災害から救った話を紹介している。

【引用】
 東日本大震災の発生直後の話だ。仙台港に近い日鉄住金建材仙台製造所では、70人余りの従業員が敷地内の築山に避難した。津波が懸念されたからだ。しかし、30分、40分たっても何もなかった。雪の舞う寒い季節。「家に帰りたい」。そんな声があがりはじめたが、工場の責任者は「命令だ」と言って帰宅を許さなかった。果たせるかな、地震から1時間以上たって巨大津波が押し寄せた。

 責任者の決断で従業員は命拾いした。その決断の基になったのは、東京の本社から携帯電話で得た津波に関する情報だったという。

 一方、宮城県名取市閖上ゆりあげ地区では、この津波で数百人の住民が亡くなった。防災無線が聞こえず、「ここは大丈夫だろう」と思いこんで避難しなかった人も多かったらしい。地区には過去の津波被害を伝える石碑があったが、年月の経過で何の石碑なのか住民もよくわからなくなっていた。

 先日、仙台市で開かれた震災報道に関する報道各社の集まりでこうした話を聞く機会があった。災害時は正確な情報の有無が人命を左右する。報道に携わる者として責任の重さを感じた。

 宮城県の地元紙・河北新報の報告にもハッとさせられた。同紙は震災前から減災報道に力を入れてきたものの、それが読者に十分伝わっていたのか疑問に感じているという。

 報道各社は毎日、大量の情報を発信しているが、相手に伝わらなければ意味がない。何を、どう伝えていけばいいのか。震災から2年半。学ぶべきこと、考えるべきことはまだ多い。(10月9日読売新聞)

 松永氏は報道する立場から「毎日、大量の情報を発信しているが、相手に伝わらなければ意味がない。何を、どう伝えていけばいいのか。震災から2年半。学ぶべきこと、考えるべきことはまだ多い。」と反省している。が、発信者だけではなく同時に情報を受ける我々の側にも反省すべき事は多い。

 目には見えないが日常生活には様様な見えない電波が飛び交っている。そしてTVの電波は適正なTV受信機(古い言い方だな)が、同じくラジオはラジオ受信機が必要だ。情報も同じでは無いか。様様な情報が発信されていても、それを受け取る我々の側にその準備や用意がなければ、いくら優れた情報も人々には届かない。しかし発信者も受信者も、お互いそのことを良く理解しているとは思えない。なぜなら発信者は発信したことで責任を果たしたと思い、受信側も適当に無視して、その結果情報が正しく伝わらない場合も多い。

 とにかく毎日流される「情報」が多すぎる。しかも玉石混淆。偽りの情報も多い。そのため現在流されている「情報」を得るだけでは危うい。隠されていたり、忘れ去られている「情報」の発掘も必要だ。そして何よりも大切な事は「獲得した情報」をどう活用するか、どう反応するかである。

 また発生した「ストーカー殺人」。警察は「情報」を与えられながら、的確に行動したとは言いがたい。警察はマニュアル通りに行動し、かえって加害者の「怒り」を増幅させ犯行を早めた可能性がある。
 ストーカー行為の増幅がやがて「殺人」に直結することは警察官ならわかっていたはずだ。もし「自分の娘」が「自分の恋人」がストーカー被害を受けても、あのようにのんびり対応できるだろうか。どんなに「情報」があっても、的確な判断が伴わなければその「情報」は「無い」に等しい。今回、警察に欠けていたのは、「当事者」の身になって考える姿勢だろう。

 もちろん身の危険を感じた人も、自分自身を「守る」行動をすべきだ。例えば夜道は一人では歩かない、出来るだけ複数で行動する。生活のリズムを変え相手に行動を読まれないようにする努力も必要だ。まさか殺しには来ないなどと軽く思わないで、遠慮せずに自分の不安を警察に強く伝えるべきだ。個人の努力には限界があるが、何もしないよりはましだ。

偏執的なストーカーの行動は被害者の個人的な「努力」だけでは防げない。また法律だけでも防ぐことは出来ない。法律はあくまで建前であって、緊急時やアウトローには役に立たない。プライバシーとの兼ね合いがあっても、「殺す」という文言があれば、早急に警察権力は介入し、すぐに「被害者」を緊急保護すべきだ。「被害者」も遠慮せずに警察に要求すべきだ。手遅れになって「被害者」が殺されないための緊急避難的な処置、社会の理解が必要だ。対象をストーカー捜査に絞れば、人権無視だとか、警察国家になるという心配は杞憂だろう。

 これ以上被害者を出さないためにも厳しい法整備が必要だ。