【団塊ひとり】硫黄島で日米慰霊式…栗林中将の親族も出席 Battle of Iwo Jima,

 Battle of Iwo Jima, すなわち硫黄島での作戦開始を控えた記者会見で米国のスミス中将は「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟している。」と発言したという。が、実際は1945年2月19日に始まった戦闘は、激戦を極め米軍は予想に反して、硫黄島上陸後わずか3日間で史上最大の上陸作戦といわれる「ノルマンディー上陸作戦」における戦死傷者数を上回った。この戦闘についてはクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」に詳しい。が、若い人の間では硫黄島の戦闘とその意義について知らない人が多いと聞く。その硫黄島で今年も日米慰霊式が行われた。

【新聞記事引用】
 太平洋戦争屈指の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)で14日、日米合同慰霊追悼顕彰式が営まれ、日米双方の生還者や遺族ら約400人が参列した。
 日本軍の総指揮官、栗林忠道陸軍中将の生家を継ぐ栗林直高さん(66)(長野市)が初めて参加した。
 元公立中学校長の直高さんは、忠道の兄・芳馬さんの孫。叔父の武久さんも硫黄島で戦死した。2006年、自宅の土蔵で忠道の少年期の手紙を見つけた。父親や兄弟に宛てた文面から家族思いで優しい忠道の姿に触れ、「忠道の思いを後世に伝えたい」と強く思うようになった。
 来月には市民団体の尽力で長野市内に忠道らの顕彰碑が建立される。碑には、1945年3月16日に忠道が大本営に送った電文「矢弾尽き果て散るぞ悲しき」が刻まれる。合理主義者の忠道が記した「悲しき」という言葉に、直高さんは戦闘のむごさが表れていると感じた。
 直高さんは、式典で出会った元米兵らに顕彰碑を紹介する英文を手渡し、「日米双方の兵士は言いようのない悔しさを抱えて亡くなった。二度と繰り返さないため、後世に語り継ぎましょう」と話しかけた。元海兵隊員のクライド・ジャクソンさん(86)(テキサス州在住)は「ここで栗林中将の親類と話をするなど考えもしなかった。この関係を大切にしたい」と話し、握手を交わした。(2012年3月14日 YOMIURI ONLINE より)

 硫黄島での日本兵の闘いは生きることを目的にしない闘いだ。しかも300人の重装歩兵を率いてテルモピレーでペルシャ遠征軍と闘い全滅したスパルタのレオニダス王とは異なり、硫黄島での犠牲は日本の勝利へは結びつかなかった。しかも敗戦後の日本人たちの多くは、すべての戦闘を侵略・軍国主義の象徴として葬り去ってしまった。

 栗林中将については多くの書籍が出ているが、市丸利之助中将が米国大統領ルーズベルトに送ろうとした書簡はあまり知られていないようだ。が、その内容は硫黄島で戦った将兵の心情の一端を代弁しているかのようである。一部を引用する。

 今「ヒットラー」総統ノ行動ノ是非ヲ云為スルヲ慎ムモ彼ノ第二次欧州大戦開戦ノ原因ガ第一次大戦終結ニ際シソノ開戦ノ責任ノ一切ヲ敗戦国独逸ニ帰シソノ正当ナル存在ヲ極度ニ圧迫セントシタル卿等先輩ノ処置ニ対スル反撥ニ外ナラザリシヲ観過セザルヲ要ス。
 卿等ノ善戦ニヨリ克ク「ヒットラー」総統ヲ仆スヲ得ルトスルモ如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。凡ソ世界ヲ以テ強者ノ独専トナサントセバ永久ニ闘争ヲ繰リ返シ遂ニ世界人類ニ安寧幸福ノ日ナカラン。

 硫黄島や沖縄・そして特攻隊の悲劇は、単に多くの犠牲を出したことにだけあるのではない。合理的に考えれば日本の敗戦は必至なのに、死なずとも良い犠牲を出したことにある。勿論、日本人の将兵は死を覚悟して、自分たちのがんばりが少しでも日本爆撃を「遅らす」と信じて愛する家族、愛する国土を守ろうとして命をかけたと思う。

 しかし最大の不幸は、米国に得体の知れない恐怖心を植え付けたことだ。そしてそれが、原爆投下へと繋がったと米国人は述べる。もしそうだとすればなんと悲しいことか。

 日露戦争における明治政府は、開始時にすでに自分たちの限界を知っていて、戦争開始当初から引き際を用意していた。その見識が昭和の軍閥政権にはなかった。日本史における最大の罪である。しかしいつまでも政権にしがみついている現在の民主党政権が、日本を亡国に導いた戦前の軍事政権といかほどの違いがあるか。私には分からない。ただこのままでは、亡国への不安が、ますます増してきているだけだ。