【団塊ひとり】登校中の悲劇、交通事故また。繰り返される事故を単なる「悲劇」で終わらせてはいけない

 何度繰り返せば良いのだろう。また「悲劇」が繰り返された。

 登校中の小学生の列に自動車が突っ込む事故が二十七日朝、千葉県と愛知県で相次ぎ、一人が死亡、二人が重傷を負った。京都府で二十三日、十人が死傷する同様の事故が起きたばかり。運転していたのは、いずれも十〜二十代の若者だった。
 午前七時三十五分ごろ、千葉県館山市大賀の県道で、バス停にいた市立館山小学校の児童四人と保護者二人の列に軽乗用車が突っ込んだ。先頭に並んでいた同市同所、一年生山田晃正(こうせい)君(6つ)が全身を強く打ち、搬送先の病院で午前十一時すぎに死亡した。
 館山署は自動車運転過失傷害の疑いで、車を運転していた同市館山、飲食店アルバイト大河原央徹(ひろゆき)容疑者(20)を現行犯逮捕した。容疑を同致死に切り替えて調べている。「釣り場を探してドライブ中だった。仕事のことを考えてボーッとしていた」などと供述している。
 同署などによると、児童らは現場から約二・五キロ離れた館山小へ登校するため、路線バスを待っていた。車は児童らの右方向から突っ込んだ。山田君は車と民家のブロック塀の間に挟まれた後、車の下敷きになり、約十メートル引きずられたとみられる。道路は片側一車線の緩やかな右カーブで路面はぬれていた。(東京新聞より)

 それにしてもなぜ同じような事件が多発するのだろう。印象に残った過去の事件をあげてみても、2002年京都舞鶴市で集団登校中の小学生の列にワゴン車が突っ込み死者1人重軽傷11人、2008年の埼玉県所沢市で集団下校中の小学生の列に車が突っ込み死者1人重軽傷4人がでた事件。さらに2011年には栃木県鹿沼市で集団登校の小学生の列にクレーン車が突っ込んで6人もの死者が出た事件など、記録によるだけでも小学生の死傷者は過去10年で実に2485人もの多数にのぼっている。これは見過ごすことの出来ない数だ。それにしても今回の千葉県館山市の県道で、バス停にいて被害にあった児童と同じく、いずれも歩行者には全く落ち度がない事件が多すぎる。こんなことがくりかえされていいはずがない。

 事件の共通点は、それぞれ集団登校の途中、運転者が十〜二十代の若者であるという点だ。事故を未然に防ぐために、地域によっては集団登校のありかたや、通学路の変更も考えているそうだ。勿論それも一つの考えだが、それだけで事故がなくなるとは思えない。また、運転手に厳罰を与えることは必要であっても、それだけでは事故を予防することも出来ない。

 亀岡の事故では新大宮バイパスの渋滞を迂回する道路として通学路が利用されていた。そして渋滞緩和の一手段として側溝を埋めたところ、それが通学路の拡大ではなく車道の拡張と意識されたため、以前よりも車の速度がまし、歩行者の危険がさらに増大したと言われる。歩行者優先ではなく車優先の考えが今回の事故の原因の一つになっていたのは明らかだ。車の運行に不便でも、通学時は車の通行を禁止するか一方通行にし、同時に大幅に歩道を拡大して、頑丈なガードレールを設置していたら結果は多少異なっていたかもしれない。

 車中心、経済中心の考えをあらためない限り通学時におけるこのような事故は再発すると確信する。原発再開にも関連するが、やはり人の命は何よりも大切で優先すべきだ。それがすべての基本だと思う。が、すべての運転手が人命尊重の精神で運転してくれるとはとても思えない。悲しいことだが、道路行政では性悪説に立つことが肝要であると思う。

 私は事故の再発防止のためには、通学路の変更を伴う自己防御や法律の強化だけではなく、それ以上に事故を誘発しにくい物理的環境を整えるべきだと思う。もちろん生活道路に迂回車の進入を防ぐことが一番かも知れないが、現実的には困難な場合が多い。その時は、例えば、生活道路においては人間の視点から、多少車の通行に不便になっても車道と歩道を区分するガードレールを設置する、また障害となる電信柱の撤去、不法駐車の排除なども必要と考える。ガードレールを設置することが困難なときはせめて歩道の存在を示す棒などの印を立てる。そして生活道路では、スピードを抑制させるために歩道の前後や、通学路の出入り口付近にはあえて道路にでこぼこをつけ、その不快な振動で運転手に通学路進入のサインを送り、速度を調整させる工夫も必要だ。そして何よりも我々が行政に働きかけて危険な道路の改善を促していくことも大切である。

 繰り返される事故を「悲劇」で終わらせるのではなく、事故撲滅の契機に繋がる努力が求められている。