【団塊ひとり】国会議員と議員秘書の在り方 小沢「事件」を考える

 あるところに小学生の悪童がいた。彼は大人顔負けのあくどい手段で大がかりな悪行に手を染めていた。が、あることで悪事が露見し補導され親が呼び出されることになった。警察はその手口の巧妙さから親の関与を疑い、当然のことながら大がかりな家宅捜索を行った。そして、少年の家から多量の盗難品を発見した。しかし、子ども達は自分たちの悪事は認めたものの、親の関与は否定する。そして、親も「悪事」は子ども達が勝手に行ったことと主張し、自己の関与は完全否定した。

 親は今までにいろいろな犯罪に関与した疑いを持たれていたため、犯罪の被害者は今回の事件も親の関与があったのではないかと疑い、また子ども達の将来のためにも親を罰しなければいけないと思って親を告発した。しかし、少年達の証言の一部に警察の誘導的操作があったことが判明し、同時に親の関与に関する有力な物的証拠も得られなかったためにその告発は受理されなかった。「疑わしきは罰せず」(in dubio pro reo)は刑事裁判における大原則であるからである。が、告発者にはなぜか割り切れない気持ちと無力感が残った。法律的手続きはともあれ、未成年者に対する親の管理責任はどうなるのか。

 もう一つ例をあげたい。今度は成人の場合だ。石部金吉を絵に描いたような性格で、常々悪いことをしないように、悪いことをすれば責任をとるべきだと常に生徒に諭し自らも実践している教師がいたとする。ところがある時、自分の子どもが無軌道な行動の末殺人を起こしてしまう。しかも青年であったのでそれが新聞に大きく公表され親子関係が明らかになる。青年であるから、親には勿論未成年のような管理責任はない。しかし、その教師はそれでも学校で相変わらず「高邁な理想や道徳」を同じ職場で説いていくことが出来ようか。また生徒は以前のように彼の言うことを信じてくれるだろうか。法律的には親である教師には何の責任もない。だが、法律だけでは説明できない世界がこの世界にはある。

 もちろん、民主国家は同時に法治国家であるべきだ。そしてその基本は「疑わしきは罰せず」の精神だ。これは守らなければならない。

 では司法が常に「疑わしきは罰せず」の姿勢を貫いているかと言えば必ずしもそうではない。代表的なものに、痴漢に対する判断がある。「疑わしきは罰せず」のはずの司法が、なぜか痴漢行為に関しては女性側の「証言」を一方的に鵜呑みにして、男性を処罰する。客観的証拠を固めない自白偏重が問題視されているのに、痴漢「事件」に関して言えば、一方的な証言だけが採用され物的な証拠や犯罪の可能性の有無などの検証も行われない。極端に言えば、本来あってはならないはずの「疑わしきは罰する」という姿勢が横行して、数多くの冤罪をうみ多くの人の人生を狂わせている。そのせいで、気の弱い私は、電車通勤の途上は両手は必ずつり革に置き、混雑の急行は避けるために朝早く起きて普通列車で通勤していたくらいである。電車内で普通なら美しい女性がそばに来たら「ときめく」ものだが、朝の通勤時間は恐怖そのものであった。

 「疑わしきは罰せず」の基本姿勢が貫かれるときと、そうでないときとの判断の基準はどこにあるのか。まさか政府の司法への政治介入の有無にあるのでは無かろうと信ずるが。

 すべて秘書がやったことで、議員は関知していないので無罪、という論理は最初に述べた親と子どもの関係に少し似ている。こんな論理がまかり通るのなら、例え指示を出していても議員が有罪になることはない。だからある民主党議員は野党時代秘書のやったことで自分は無罪という議員の在り方を強く批判していた。が、そのベテランの民主党議員は自分がその立場に置かれたとき、簡単に自説を翻した。このような議員を私は信用しない。私は議員に聖人のような道徳的な潔癖さまでは要求しない。しかし、国家の運営に携わる国会議員は少なくとも自分の発言にもっと責任を持ってほしい。

 もちろん「疑わしきは罰せず」である以上、その基本理念のもとに示された司法判断は好悪や政治的立場に関わらず尊重しなければならない。それが法治国家の大原則である。しかし、三審制をとる民主国家日本では、控訴の可能性も残されている以上、まだ小沢氏の処分は「保留」状態であるはずだ。が、民主党ではすでに小沢氏復権の動きが定まっている。まるで、裁判の結果がすでに判明しているような行動であり、私は政治決着が図られたのではないかという疑念を禁じ得ない。

 民主党に求めるのが無理だとは思ってはいるが、せめて、組織の長は、諸葛孔明が「泣いて馬謖を斬った」ように振る舞ってはもらえないだろうか。政治はそれほど厳しいものだと言うことを政治家は身をもって示してはくれないだろうか。指導力、実行力を示してほしいものだ。いやいや、明らかに無能で違法な行為をした大臣さえも切ることが出来ない宇宙人や人ならぬドジョウの集団に期待する方が間違っているのだろう。

 何度も繰り返される議員と秘書のもたれあいの関係。「トカゲのしっぽ」の役割をあえて引き受ける秘書の存在。それを断ち切るために、秘書の行為に政治家も連帯責任を持つ。この単純なことをもうはっきりと立法化するべき時に来たと思う。それが失われた政治への信頼を回復する一歩になると信ずる。あとは有権者が判断するしかない。どのような政治家を選ぶか。それはまさしく我々国民の民度とも関係している。我々有権者も投票の責任を自覚すべきだ。二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。