【団塊ひとり】大津いじめ事件に思う 民族と差別と「いじめ」の問題

 久しぶりにブログを書く。幼稚園入学から約60数年間存在した「日曜日」というものが抜け落ちて「毎日が日曜日」になって最初の五月病、そしてうんざりする事件の続出。意見表明ばかりで前に進まない政治家、すべてをバラエティの視点で演出し、一般論に終始するTVのコメンテーターたち。その中で私のような無力なブロガーに何が出来るか、ということを考えたらもう何も書けなくなってしまった。が、それは決していいことではないことに気づいた。今までだったら話題にもならなかったこと、もみ消されていたことでもツイッターやブログで公表することによって大きな運動になり得るからだ。今までなら人知れず消されていく運命にあった人の代わりに「発言」出来るかもしれないからだ。

 アメリカがベトナムを「侵略」したとき、少なくともアメリカのマスコミの一部は戦争の一面を限界はあったにせよ同時進行的に報道し、戦争終結への大きな力となった。が、国民が自由に意見を述べることが許されてはいない国、限定的であっても「自由」な報道が許されていない国では、政府の発表や公共放送からは真実は生まれない。ソビエト軍ハンガリーチェコに、中国がチベットウイグルに軍を進めた時に、もしツイッターやブログや携帯による映像の公開があったとしたら、中国もあれほどの虐殺を行えなかったかもしれない。アラブの春もネットの拡散なしには成功しなかった。ただネット情報には当然のことながら、事実誤認・曲解・煽動・なりすまし・世論操作的な側面も見られるので慎重にならざるを得ない。そのことを踏まえてまたブログを再開したいと思う。

 転校が多かった小学校時代2度ほど「いじめられた」ことがある。それから「いじめ問題」に関心を持ち始め資料を集め出した。そして成長するに従って、一口に「いじめ」と言っても実に複雑な構造があることに気づいた。そしてあるキーワードが存在するとき、教師や教育委員会や警察・裁判所、時にはマスコミまでもが及び腰になっなっていくことに気づいた。今回の大津のいじめ事件はまさにそのキーワードが当てはまる事件ではないかと思う。ただ昔と異なるのは、それが隠蔽化されずに、むしろ真実を明らかにしたいという欲求が高まっていることである。それはネットの力が大きいと思う。

 私の体験は大津のいじめと比べれば「いじめ」とも呼べないようなものだ。まず今の私にとって最後と意識されている私への「いじめ」は私が現在の場所に転校した小学6年のときに始まった。いきなり数人に囲まれ、「おい、なんでチョンコと仲良くするのだ。これからあいつと遊ぶな」と言われたことが発端だった。それからその数人の男子児童による「いじめ」(いやがらせ?)が始まった。父の突然の死による転校で大阪に来た私にとって、その時は「チョンコ」という言葉が何を意味するのか全くわからなかった。だから彼らの行動の真意がわからなかった。その時は和田アキ子さんのような大柄な女の子がいつも私を助けてくれたことを覚えている。が、いつしか私は「チョンコ」と呼ばれた子と遊ばなくなった。すると今度は「チョンコ」と呼ばれていた子から「いやがらせ」を受けるようになった。今なら彼の気持ちはよくわかる。しかしその当時の私は父を失った悲しみで、物事の真実を見抜く力も知識も持ち合わせてはいなかった。

 私の最初の「いじめられ」体験はずいぶん昔のことになる。が、時間や場所を正確に述べると特定される恐れがあるので、小学校低学年の体験だと述べるにとどめたい。その時も転校後しばらくの事だった。ある数人のグループから理不尽な暴力を受けたことがある。しかしその時も味方になってくれる子供達がいて、そのグループがいるときは彼らも私には手を出せなかったようだ。

 大人になってなぜあのとき自分は「いじめ」を受けたのかと反省したことがあった。写真を見ると田舎のはなたれ小僧の中でひとりだけ髪をわけ、自分で言うのも何だが少しこざっぱりとした都会的な服装をしていた。言葉も違う。これでは地元に同化できない。原因の一つと思った。

 また担任も学校を出たばかりだったらしく、計算の誤りなどを私がよく指摘していたそうだ。それらのことを思い出すと、私は実にいやな転校生でこれでは素直に受け止めてくれない子供がいても仕方がないと思ったものだ。これも原因だったのではないかと思った。

 しかし、こんなにのんきに過去の「いじめ」体験を回想できるのも、助けてくれる「仲間」がいたからだ。それに私も彼らに反撃をしていた。その地方はまだ闘犬や「印地うち」のような遊びが残っていて、「石合戦」では私も先頭に立って石を投げ合ったものだ。それが原因で相手に大けがをさせ、またいきなり相手の顔面にパンチを食らわせたりして、母が校長に呼ばれ、その時に「いじめ」の存在を話したことで「いじめはなくなったのだよ」と母には聞かされていた。転校後、一月もたたないうちに「いじめ」は消滅し、代わりに多くの「遊び友達」が生まれた。

 その、のんびりした追憶が一変したのが卒業数十年たった後の「恩師」との「再会」である。「自分探し」ではないが、私がかつて在籍したいくつかの小学校を訪ねた事があった。それは同時に父と生きた時間への追憶の旅でもあった。また恩師は子供心にも少し胸がときめくほどの「美人」であったと意識していたので、再会は好ましいものになるはずだった。「恩師」はすでに退職されていた。学校にはすでに古いアルバムはなく、また情報を守る立場からなかなか住所を教えてもらえなかった。が、私の名前を恩師に告げてそのことで判断すると言うことになり、職員が恩師と連絡を取ってくれた。数十年という月日がたつのに恩師は私を覚えてくれていた、そして電話に出た瞬間の恩師の言葉を今も覚えている。

 「○○くん、ごめんなさいね。いじめられていたよね。私は知っていながらどうすることも出来なかったの。ごめんなさいね。」恩師は言った。「彼らは朝鮮人の集団で私たち教師は手を出せなかったの。」私は耳を疑った。同時に単純な子供同士の争いと思っていたものが、そう単純なものではなかったことに気づいた。そして恩師は涙ながらに何度も謝った。私は途方にくれて返す言葉がなく、とうとう理由をつけて会わずに帰ってしまった。

 今回の大津の「いじめ」事件に関する情報もいろいろな情報が乱れ飛んでいるようだ。加害生徒やその家族に関しても在日・同和・警察OB・土地の有力者・PTA会長等という単語が出ている。それがどこまで真実なのか。それにしても。なぜ今に至るまで正式に学校名が公表されないのか、どうして担任は我々の前に出てきて意見をどうどうと公表しないのか。教育委員会は何を守ろうとしているのか、核心に踏み込まないマスコミは何を恐れているのか。このままではネット上の不確かな情報が拡大再生産され新たな「いじめ」が発生する危険性がある。

 新聞報道が正しければ、もはや単純な「いじめ」の次元ではなく暴力・恐喝・自殺教唆・または「他殺の疑い」すら考えられる 。加害生徒はすでに名前を変えて京都の学校に転校したと聞く。戦後民主主義というまやかしの思想を垂れ流し、国民をここまで堕落させた罪人のひとり日教組の親分が仕切る民主党政権ではこの問題を正当に解決することは不可能に思えてならない。いったい日本はどこに行くのか。このままでは超極右政権が圧倒的な国民の支持を受けて登場するのも時間の問題のような気がしてならない。それは決して日本やアジアの国の為にはならないと思うのだが。