【団塊ひとり】東京大空襲を考える

 明日10日は10万人以上もの非戦闘員が「虐殺」された東京大空襲の日。10日は東京大空襲に関する悲惨な体験が各地で語られるだろう。

 「目的」や「理想」が正しければ「手段」は正当化されるのか。戦勝国ファシズムに勝利するという目的の為には、非戦闘員をジェノサイド的に殺すことも正当化されるという論理を展開している。
戦勝国は、原爆や大空襲の悲惨を日本人が語るとき、日本の「真珠湾」が無ければ原爆投下もなかった、大空襲もあり得なかったという論理を展開する。そして日本人が「被害者ぶる」のは我慢できないという一部アジアの国の意見が存在する。感情的な反発を覚えても、完全に無視することは出来ない。なぜなら、そこにはもっともな考えも含まれているからだ。それに反論できる手段をいま我々は持っているのか。

 しかし、いくら理由をつけても非戦闘員を大量に殺害することは戦争犯罪である。ましてポツダム宣言を受諾し、すでに勝敗が決した後の日本各地への空襲は報復、殺戮だけが目的ではないか。そこに正義が存在するとは思えない。いかなる理屈をつけても、それは過剰な殺戮である。

 もし日本が戦争に勝っていたなら、原爆投下を命令した責任者、実行者、そして非戦闘員を大量殺戮した日本各地の大空襲実行者は、明らかに戦争犯罪人として吊されていたはずだ。が、日本政府は大空襲の実行者カーチス・ルメイに勲章を与えている。日本は自ら告発の機会を捨ててしまった。

 こうして敗戦国日本は裁かれたが、原爆投下を命じた者も、非戦闘員を大量殺戮した大空襲の関係者はだれも裁かれなかった。勝者によって歴史が作られるのはやはり真実だ。

 もし戦争犯罪人というものがあれば、それは勝者・敗者関係なしに適応されるべきだ。それがなされていない裁判は不当である。これからの日本人は歴史をもう一度確認し直す必要がある。

 その為には目的の為には手段を選ばなくてもよい、という考えに批判的であるべきだろう。反省を踏まえつつ、主張すべきことは主張する。そのためには戦後民主主義の呪縛からの脱出がぜひとも必要だと私は思う。

 戦後民主主義の欺瞞性は安っぽい同情心をはびこらせた事だ。一方的な正義を振りかざした事だ。その結果、ある種の犯罪者を野放しにする結果になった。こうして同じような「犯罪」を起こす機会が無条件に与えられる。悪質な交通事故、ストーカー等。おかしくはないか。

 もし本人は健康体なのに、感染すれば死に至らしめる危険な病原体を体内に持っている人間がいたらどのように対応すべきか。発病していなくても隔離すべきか、それとも人権を尊重し、隔離せずを野放しのままにしておくべきか。隔離すれば今の日本では批判が起こるだろう。ではその結果死者が出たら誰が責任を負うのか。だれも責任を負わない。それが今の日本だ。戦後民主主義では答を見つけられない。

 1人の人権を重んじて、他の生命を危険にさらすことははたして正しいと言えるのか。では、危険をさけるために対象者を隔離することは正当なのか。こんな当たり前の疑問ですら、普段我々は考えない。勿論義務教育では教えてはくれない。何かが欠けている、何かおかしい。そう思いませんか?