【団塊ひとり】日本のロボット技術 日本は本当にロボット大国なのか。なぜアシモは役にたたなかったのか


ネット上のクラウドが流行だ。勿論情報を託す基準は厳密に決定されているだろうが、クラウドに慣れてしまって、重要な情報を預けてしまうことはないだろうか。もしかしたらクラウドのあるものは競争相手が仕組んだ罠であるかも知れない。あるいは、貴重な秘密を持って「自ら飛んで火に入」らせるための××国の危険な工作であるかも知れない。場合によれば、クラウドの技術は必ずしも安全なバックアップシステムとは言えないのだ。

 クラウド上の情報が突然消滅する。貴重な情報が競争相手に筒抜けになる。クラウドを信じすぎないことだ。便利な技術が必ずしも安全であるという保障はない。「技術」を信じすぎることは危険である。当初の目的とは違った使用法が考案される危険から我々は自由とは言えない。

 先日のNHKスペシャルでロボット技術が特集された。日本はロボット大国と言うが、福島の原発事故では役に立つロボットは存在しなかった。原子炉近辺を探索するという簡単な作業すら出来るロボットは日本には存在しなかった。その時投入されたのは残念ながらすべて欧米の「ロボット」だった。

 あのとき人型ロボットのアシモは何をしていたのだろう。人間が立ち入ることの出来ない、危険な場所に立ち入り人間にかわって作業を行うには、人型ロボットが最も適任だ。アトムを連想させる姿から、誰もがアシモに期待したはずだ。しかしアシモはいざというときに何の役にも立たなかった。
彼は確かにダンスは上手なのだが。

 震災前に登場したアシモの出現は革命的だった。アトムとは比較にならなくても、ロボット時代の到来が証明された気がしたものだ。しかしアシモは、福島の原発事故では全くの無力だった。本当になんの役にも立たなかった。消防署員のかわりにホースを持って原子炉内に放水することさえ出来なかった。仮に技術は一流だとしても、必要な時に役に立たない技術は単なる自己満足だ。平和時には人を楽しませても、非常時に役に立たないロボットにどれほどの存在理由を見つければいいのだろう。我々が誇りに思ったアシモは、平和ボケした戦後日本人を象徴していたのだ。非常時には役に立たない技術を我々はどう理解すればいいのだろう。

 NHKスペシャルでは自分たちの技術が「軍事技術に転用」されることを恐れる「良心的な若い技術者」が登場した。が、軍事に転用されない「技術」とは何か。先端技術の研究は、技術者の意志とは無関係に必ず軍事と結びついてゆくのではないか。たとえば我々が普段使用するハンカチすら、水に濡らして人の顔にかぶせれば、立派な拷問の道具になってしまう。

 全ての民生技術は軍事技術に転用が可能だ。台所の包丁だって殺人兵器になる。金属バット然り、アーチェリー然り。自転車だって武器を携帯した兵隊が使用すれば立派な輸送兵器だ。軍事技術に転用することを恐れていては何も出来ない。人間の筋力を拡張させるロボットスーツは、福祉の場における身体障害者にも、戦場の軍人にも有用な技術だ。

 その気になれば、どんな技術でも軍事利用が可能だ。ダイナマイトは平和利用を目的に開発されたが、軍事転用から逃れることは出来なかった。軍事利用を拒否して開発される技術は、結局は役に立たない自己満足の技術に終わる。陳腐な平和思想はやがて日本の技術を衰退に導く危険な思想になるだろう。発想の転換が求められている。

武器転用に対する嫌悪にとらわれていては日本のロボット技術は世界から取り残される。
アシモを乗り越えたロボットが生まれた時、はじめて本当に日本はロボット技術の先端にたったと言えよう。