【団塊ひとり】憲法改正、「賛成」が51% 読売新聞 頑迷固陋からの脱出

「御前」という表現は昔は敬意を含む表現だった。が、現在その意味で使う人はいない。言葉は生き物で時代によって変化してゆく。よく「ぶれない政治」が評価されるが、違う側面から見ればそれはただ頑迷固陋(がんめいころう)に過ぎないことも多い。「ぶれない」と「頑迷」、「ぶれる」と「柔軟性」この違いを見極めるのは思ったより困難だ。

 ある時期に影響を持った思想や行動も、気がつけば時代に取り残されていることも多い。かつての革新もやがて頑迷な保守となる。若き英雄ナポレオンも最後は囚人となって屈辱の中で死んでいった。関ヶ原の戦いを経て築かれた「徳川の平和」もやがては古いものとして滅んでいった。徳川と運命を共にした会津の悲劇は300年前の家訓に縛られたためと言えなくもない。

 もちろん、会津武士道の「ならぬものはならぬ」という教えは精神の核を作るためにも必要な道徳である。が、本居信長も指摘するように「師の教え」は万能ではなく、かつ万能であってはならない。ある考えが不磨の大典として権力の支配道具になってしまえば、そこから新しい精神は生まれては来ない。ある思想が絶対視されてしまえば社会は旧習に埋没し創造性は失われる。そのような社会では旧弊が幅をきかし、若者や女性や社会的地位の低いものは抑圧される。軍制改革に遅れをとった会津は滅ぶべくして滅んでいったのだ。

 現在は「平和な乱世」である。「乱世」ならば無秩序故に、新しい社会秩序の組み替えが必要になる。坂本龍馬高杉晋作西郷隆盛などの下級武士が、頼りにされ新しい時代の立役者になることが出来たのは、「乱世」であったことと無関係ではない。

【引用】
憲法改正、「賛成」が51%…読売調査

 読売新聞社の全国世論調査(3月30、31日、面接方式)で、憲法を「改正する方がよい」と答えた人は51%となり、昨年2月調査の54%に続いて半数を超えた。

 「改正しない方がよい」は31%(昨年30%)だった。

 政府が「保有するが行使できない」としている集団的自衛権に関しては、「憲法を改正して使えるようにする」が28%(同28%)で、「憲法の解釈を変更して使えるようにする」の27%(同27%)との合計は55%となり、昨年に続いて容認派が半数を超えた。

 憲法改正の発議要件を定めた96条については、「改正すべきだ」と「改正する必要はない」がともに42%で並んだ。

 今夏の参院選で投票先を決める際、憲法問題を判断材料にすると答えた人は40%で、前回参院選前の2010年調査から12ポイント上昇した。安倍首相が96条の先行改正などの憲法問題を参院選の争点に掲げていることを反映したようだ。各政党が憲法論議をもっと活発に行うべきだと思う人は76%に上った。

 海外で事件に巻き込まれた日本人を自衛隊が輸送する場合、船舶や航空機に加えて、車での輸送を認める方がよいとする人は76%に達した。

 衆院参院で多数派が異なる「ねじれ国会」に対しては、「与野党が対立する法案が成立しなかったり、遅れたりする」との否定的評価が47%(昨年56%)に下がり、「与野党で政策協議が行われ、国会が活性化する」との肯定的評価が39%(同32%)に上昇した。 (読売新聞)

 青は藍より出でて藍より青し。だから新しい酒は古い革袋に盛ってはいけない。多くの国が憲法を改正する理由だ。日本と同じ敗戦国であるドイツ、イタリアでも数十回の改正が実施されている。あの韓国でさえ9回にわたって憲法を改正している。メキシコなどは400回を超えている。新しい価値観を持った国民が過去に縛られない自分たちの生き方を主張するのは当然だ。今を生きる世代を古くさい因習や規則で縛ることの出来る期間には、やはり賞味期限というものがあろう。

 憲法改正が現実のものになりつつある。賛成派は勢いを増し、反対派はあらゆる手段を使って阻止しようとする。反対派の異常なまでの執念を見ていると、戦争末期の狂信的な軍人の姿が連想される。彼等は国体護持をスローガンにあくまで戦争終結に反対した。もし彼等の意見が通り、行動していたらおそらく日本は完全消滅していただろう。その時歴史はどのように記述するか。「国体は護持された。が、日本国と国民は跡形もなく消滅した。わずかに生き残ったかつての日本人たちは今それをどのように受け止めているのか」とでも記載されるのだろうか。

 どのような憲法・どのような社会体制を選択するかは、そのときどきの時代に生きる「国民」によって常に開かれていなければならない。旧来の日本のままでいいのか、それとも新しく生まれ変わらねばならないのか。生まれ変わらねばならないとしたらそれはいつか。それはCMの言葉を借りるなら「今でしょ」と言うしかない。

 戦後憲法明治憲法のように神聖にして犯すべからざる「不磨の大典」と考えるのか、それとも新しい日本の未来を託することの出来るものとして、新しい時代に適した法典として新しく制定すべきか。それを決めるのは過去に生きる古い人間や法律家ではなく、今を生きる新しい人間である。そしてそれを決める手段は民主的な手続きの下に行われる選挙ではなかろうか。

 どれほどいいものでも賞味期限は来る。金属疲労は発生する。手入れを怠ればトンネルは崩落し被害が発生し、貴重な人命は失われる。常に点検は必要だ。そして不備があればこまめに点検し修理する。

 変えてはならないもの、変えねばならないもの、物事にはこの二面がある。形を大切にし、かつ形にとらわれない。我々は「不易流行」を説いた芭蕉の姿勢に学ぶべきだろう。

 私は憲法は改正されるべき時期を迎えたと信じる。その内容が革新的なものになるのか、保守的なものになるのかは選挙というルールに従って、国民が決めることである。だから憲法でも決められた改憲作業すら拒絶するという姿勢は、護憲に名を借りた「赤いファシズム」以外の何物でもないと私は思う。