【団塊ひとり】橋下市長の慰安婦発言と言葉の定義 世界の日本理解


 同音異義語はやっかいだ。団塊世代では、「こうどうしゅぎ」の意味を取り違えて話がかみ合わなかった笑えない話を聞いたことがあるだろう。混乱の理由は「行動主義」と「皇道主義」を取り違えた所にある。

同音異義だけではなく同訓異字もやっかいだ。が、同じ漢字を使用しながら意味が全く異なる場合はもっとやっかいだ。「手紙」は日本語ではletterだが、中国ではtoilet rollの意味だ。「愛人」は日本では妻以外の女性だが、中国では「妻」のことらしい。それを理解していないと大変な誤解が発生する。

 アメリカは日本の「風俗営業」を「売春業」と短絡的に「理解」した。しかし橋下市長が主張した「日本の法律に基づく風俗業」は「売春業」ではない。アルゼンチンタンゴ風俗営業法の規制下にあるが、ダンス愛好者が道徳的に卑しいことをしているわけではないことは明らかだ。

 今までの日本の政治家は、日本語がどのように翻訳されてきているのか、自分の発言が異文化ではどのように理解・判断されるのかに注意しなかった。だから不毛な軋轢が生じる結果になる。学校教育でも異文化理解は重要視しても日本文化を正しく伝え、発信することには力を注がなかった。誤解の元だ。

 「国家の品格」を執筆した数学者の藤原正彦氏は「一に国語、二に国語、三四がなくて五に国語」が口癖だという。数学と違って言葉の背後には、その国の文化や、性や、固定観念など様々なものが染みついている。まず日本人自身が自国の言葉の歴史を知ることだ。現在の「自由」と明治初期の「自由」は、同じ言葉でもそのニュアンスが大きく異なる。「愛」という単語も中世の日本人と平成の日本人とは大きな解釈の違いがある。そのことを理解しなければ日本の文章すら正しく理解できない。まして外国の文章を「誤解」すれば国際問題に発展しかねない。

 橋下市長がアメリカ訪問を辞めたが、今の時点では最高の選択だ。が、多少の不備はあっても、大胆で率直な市長の主張はこれから効果を発揮してくると思う。「言葉」の定義という基本的な知識さえこれほど異なっている状況では当然だ。

 アメリカ人や中国人は意外に率直な物言いを好む。橋下市長は今までの日本の政治家とは明らかに違う印象を与えたはずだ。これからは政治家だけではなく、一般的な大衆にも訴えてゆくべきだ。事実を元にして地道に訴え続けてゆけば、やがて道は開けてくる。誤解されているところがあれば、それを時間をかけて訂正を要求する努力を惜しんではいけない。カチンの森事件のように、長い間ナチスの行為と思われていたポーランド人数万人の虐殺も、実はソビエト共産党の行為であったことが分かった事例もある。

 理不尽で不公正なものだと思えば、例え自国のマスコミにたたかれてもあきらめず主張し続けるべきだ。橋下市長は戦後の政治家の誰もが公然と言えなかったことに火をつけ炎上させた。未熟な点もあり、国益を損ねた部分も存在するが、それでも私はそれを勇気ある行動であり必要であったと信じる。いわば問題提起だ。ただ政治家である限り限界があることも理解すべきだ。政治家や歴史家や宗教家や法律家など、同じ対象でもそれぞれの立場によって異なる意見が出る。「歴史認識」について政治家が関与できる範囲は限定的だ。政治家以外の味方、特に第三者的な外国の論客を味方につける必要がある。

 忘れてはならないのは欧米諸国やアメリカは激しい「宗教裁判」や「魔女裁判」を経験した国である。糾弾された魔女は拷問を受け、死んで始めて「魔女」ではなかったと証明される。魔女を「証明」するための突き刺せば引っ込むナイフすら存在した。それを見た「観衆」は、ナイフが刺さっても血も出ず、死にもしない女性を見て「魔女」と確信しただろう。ひとたび「魔女」や「異端者」と判断されたらほとんど助からない。いくら「無罪」を主張しても回りには伝わらない。。

 宗教裁判でなぜ無実の人が殺されたのか。告発者は「魔女」や「異端者」の財産を私物化できたからだ。もちろん魔女と判定したものと山分けだ。欲と結びつくと恐ろしいことが起きる。現代では、最終的に過失を認められなかったトヨタリコール問題がまさしくそうだった。

 急加速問題の原因調査をしていた米運輸省・米運輸省高速道路交通安全局やNASAは2011年の最終報告で「トヨタ車の電子制御装置に欠陥はなく、急発進事故のほとんどが運転手のミス」と結論づけた。が、その間ブレーキとアクセルを踏み間違えた「被害者」の絶叫が、アメリカのメディアの映像によって世界中に流布された。

 映像と音声ほど強い「証拠」はない。原因が運転手のミスであったにも関わらず瞬く間にトヨタは非難の嵐に見舞われ、業績は悪化した。その代わりに業績を伸ばしたのがアメリカの自動車業界の車と、韓国の車だ。トヨタの社長は公聴会に呼ばれ「謝罪」と同時に多額の「賠償金」を支払わされた。

「狂信的」といえるほど激しいトヨタへの集団訴訟の中心になっていたのは韓国系のアメリカ人だ。奇しくも2009年はあの民主党政権が成立した年、そしてリコールが沈静化した2010年は鳩山内閣が終焉した年だ。牽強付会と非難されようが私はこれらには大きな関係があると思っている。

 いまアメリカで発生する執拗な日本批判の背後には、必ず韓国系や中国系のアメリカ人議員の黒い影が存在する。そのことを理解しないと日本人はアメリカという国を誤解する。日本人の多くはアメリカ人というと、未だにアングロサクソン系の「白人」を連想する人が多い。困ったものだ。

 が、韓国がアメリカで日本に見せたパフォーマンスは、やがてそのまま自分に跳ね返る時が来るかもしれない。もし韓国製の自動車に何か問題が起きたときは多額の賠償金を支払わねばならないだろう。トヨタの姿勢が一つのモデルとなって、アメリカの消費者は同じ行動をするからだ。

 かつてペリーは江戸幕府を見下して「強く出れば日本は必ず折れる」と判断した。残念ながら戦後の与野党の政治家たちも同じように思われてきたのではないか。田中角栄のようにアメリカから距離をとる姿勢を見せると、とたんに潰されるという恐怖が政治家を支配していたように思われる。

 評価はともあれ「強く出ても折れない」政治家。それが安倍首相や橋下市長であるような気がする。ただ橋下市長は弁護士的な妥協が目立ち、政治家としては少し「未熟」な印象を受ける。またTV的な演出も目立ち、なんとなく落ち着かない。が、安倍首相は尖閣では一歩も退かないが、突然北朝鮮接触するなど「老獪」にも見える手法を用いている。前回と違って海外へも積極的に出かけ、着実に成果をあげている。安倍首相への批判も橋下市長の騒動で消えてしまった。

 団塊世代である私は、私はいわゆる「ノンポリ人間」だった。政治には関心を持っても学生運動の経験も無ければ、もちろん民族派の学生でもなかった。今でも特定の支持政党は持っていない。

 今までの自民党に不満だった人は「維新の会」に流れていたが、安倍首相の出現で「維新の会」の存在理由が薄まった。総選挙では自民党を選択して今までの「決められない政治」から手を切るか、民主党に投票して、再び不況日本に舞い戻るかの究極の選択になるのかもしれない。

 たぶん7月に行われる総選挙。今後の日本の進路を決定する戦後最大の岐路になる可能性がある。それぞれの政党はどのような目標をたてるのだろう。

 不平等条約撤廃を国是に掲げた明治時代の人間から見れば、差別的かつ不平等な日米地位協定などに真剣に取り組まない平成の政治家はどのように映るのだろうか。今日的意義としての「慰安婦問題」は、最終的にはこの日米地位協定の解消に向けて収斂すべきだ。総選挙では日米地位協定の変更を目指す政党にも注目したい。