【団塊ひとり】「題名のない音楽会」・・・・「待つ」ということ、「応える」ということ。

 今朝、佐渡裕氏司会の「題名の無い音楽会」を見た。さだまさしさんと彼の息子TAIRIKUさんがリーダーの3人のアンサンブル・ユニットTSUKEMEN(ツケメン)のミニコンサートだった。良かった。特に最後のさださんの作詞・作曲した「舞姫」はしみじみと心に響いた。

 歌は次の言葉で始まる。
「一度だけ恋をした そのひとは旅人 何時の日か必ず 帰ると 約束した」
 その約束を周囲は笑ったが、舞姫は待ち続ける。そんな姿を人々は「未練と言い ある人は健気と言い」そして「いつかしら彼女は 一途と呼ばれるようになる」。さださんの歌声は淡々と流れる。
 「待つことを止めたそのとき 恋は死んでしまう」と。「愛した人を嘘つきと 呼ばせはしない この生命懸けて 恋を死なせはしない」と。なんと美しく切ない言葉かと思った。こんな古風な歌を歌う人がいるのだ。

 鴎外に「舞姫」という小説がある。私が「舞姫」を初めて読んだのは半世紀前の国語の時間だった。当時の私は「舞姫」の主人公に激しい嫌悪感を抱いていたようだ。出世のためには「恋人」も捨ててしまう。主人公の悔悟は弁解にしか思えなかった。さださんの「舞姫」とは全く正反対の世界。それが鴎外の「舞姫」だと思っていた。例えば次の文章。

 大洋に舵を失ひしふな人が、遙かなる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。

 豊太郎の裏切りを知って、発狂した鴎外の「舞姫」とは違って、さださんの「舞姫」では純粋に「待つ女」「待ち続ける女」が描かれる。

「頼まれた訳じゃない 私が好きで待っている 待つことを不幸だと 思うあなたの方が不幸」

 彼女は上田秋成の「雨月物語」に出てくる「浅茅が宿」の宮木を連想させる。時代は室町時代。宮木の夫、勝四郎は傾いた家を建て直すため都に出かけ成功するが、山賊に襲われ全財産を失う。その後戦乱になり、勝四郎は帰る機会を奪われる。

 7年後、帰郷すると死んでいるだろうと思われた妻が「別人かと思われるほど、変わり果てたすがた」で現れる。そして帰郷が遅れた理由を夫に聞いた後、妻は夫に訴える。

 妻涙をとゞめて。一たび離れまいらせて後。たのむの秋より前に恐しき世の中となりて。里人は皆家を捨て海に漂ひ山に隠れば。適に殘りたる人は。多く虎狼の心ありて。かく寡となりしを便りよしとや。言を巧みていざなへども玉と砕ても瓦の全きにはならはじものをと。幾たびか辛苦を忍びぬる。銀河秋を告れども君は帰り給はず。冬を待。春を迎へても消息なし。今は京にのぼりて尋ねまいらせんと思ひしかど。丈夫さへ宥さゞる関の鎖を。いかで女の越べき道もあらじと。軒端の松にかひなき宿に。狐ふくろうを友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬる事の喜しく侍り。逢を待間に恋死なんは人しらぬ恨みなるべしと。(「雨月物語浅茅が宿」)

 そして夫婦は久しぶりの二人だけの夜を過ごす。が、翌朝、目覚めた勝四郎が目にしたのは荒れ果てた廃屋。彼が一夜をともにしたのは夫をひたすら待った妻の亡霊だった。

 「待つ女」宮木とそれに「応えた男」勝四郎。この古典的な関係はまさしく日本文学の本質だ。伊勢物語の世界がそうだし、光源氏と末摘花の関係もそうだ。小説のエリスも「待つ女」であったが、豊太郎は「応える男」では無かった。「エリス」は日本の伝統にそった「待つ女」であったが、近代日本を担う使命を帯びた豊太郎は違った。小説「舞姫」の悲劇は、あるべき関係を男が一方的に破ったところに原因がある。権力の中枢にいた鴎外は富国強兵の近代化の中で、男たちが見失っていったものを正確に把握していたのかも知れない。

 現代では女性はひたすら男を「待つ」ということはしない。それほどの価値がある男が少なくなったのかも知れないが、「待つ」ことよりも、もっと積極的に「待たない」ことのほうが重要な価値観と思われているのではないか。現代では、ただ「待つ」事は受動的で、自分の意志を放棄したように思われがちだ。

 しかし「待つ」ということはそれほど無価値なものだろうか。「待つ」ことは相手が必ず自分に「応えて」くれることを信じることだ。そう考えると「現代の女性」(の一部)が捨ててしまったこの「待つ」という一見「古風」で「従属的」にしか見えない生き方。それを捨てることによって失ったものも多いように思う。

 さて、小説で描かれた「舞姫」とは違って現実の「エリス」は小説のようには発狂せず、鴎外帰朝後しばらくして日本にやってくる。当時の旅費は今よりもはるかに高額だったから、「エリス」は必ずしも「貧しい舞姫」では無かったのかも知れないし、鴎外が旅費を出したとすれば、この「恋」が真剣なものだったことが分かる。

 結局は家の反対にあってドイツに帰った「エリス」に鴎外は死ぬまで生活費を送っていたらしいし、文通もしていたようだ。まさしく事実は小説よりも奇なりだ。大人になっていろいろなことを知るようになり、私は鴎外に対する考えを改め「舞姫」を読む姿勢も大きく変化した。表面をなぞるだけでは分からないことがある。本当に大切なものは、必ずしも表には現れないものだということを知った。

 選挙が近づいている。日本の有権者は決して「待つ女」のように忍耐強くなく従順でもない。少しでも失点すればさっさと違う政党に乗り換えてしまう。だから選挙は常に現政権に対する信任・不信任を争うことになる。その結果「「信頼」ではなく「欲得」が投票の動機になってしまう。「恋」と「政治」は違うかも知れない。が、短絡的な変更で見失うことが多いことにも注意すべきではないだろうか

 だが、今の日本に、有権者が「待つ選挙民」に徹しきれるほどの政党は存在するのか、今の日本の政党は、有権者の期待に「応える政党」になりきることが出来ているのか。そして日本の国はかつて寺山修司が歌ったような「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という状態を脱しているのか。

 「待つ」人に「応える」こと。この関係がもっとも必要とされるのは北朝鮮に拉致された人々と、日本人だろう。ひたすら待ち続ける人、その人たちの思いに何としても「応える」こと。これは日本人に課せられた重大な使命だ。

 人間にとって「忘れさられること」ほど残酷なものはないからだ。