【団塊ひとり】『週刊文春』安藤美姫選手出産について


 出産した安藤美姫選手が父親の名前を発表しないと言うことで、少しゴシップのようになっている。私は平凡人だから、見合いで結婚し、子供3人が独立後は「かみさん」と二人ありふれた生活をしている。「かみさん」はいまや旗色の悪い専業主婦だ。しかし、人それぞれの生き方があって悪いとは思わない。みんな違って当たり前ではないだろうか。

 私は凡人だから形式を重んじ、それなりの手続きを踏んで結婚した。しかし、結婚せずに出産することについて批判する気はない。人生それぞれ、出産や結婚の方法も人により違って当然だ。批判するのも賛美するのも、それぞれの人生観の違いだから仕方が無い。が、公の場で公然と相手を批判することは、それは違うのでは、という気持ちを持っている。

 ただ成長した子供にとって自分の父親が誰かは気になるだろう。「なぜ僕には父さんがいないの?」と素朴な疑問を投げかけることもあろう。思春期を迎えた子供には自分のアイディンティティを確認するためにも父親の存在は必要になる。少なくとも「父がいない」事の説明は必要な時もあろう。その時はどうするのだろう。もちろん他人があれこれ言うことではないのだが。

 評判が悪かったNHK大河「平清盛」は清盛の本当の父は白河法皇というように描かれ、そのことに気づいた清盛が悩む姿が描かれていた。子の悩みとしては当然だろう。もちろん、それが史実とは断定できない。

 更に大河「平清盛」では鳥羽天皇の子である崇徳天皇を『古事談』の記述に従って、鳥羽天皇の妻と祖父白河法皇との密通の子としている。自分の子供と思っていたら、なんと妻と、じっちゃまの間に出来た「不倫」の子供だって。もちろん事実は定かではないのだが、大河ドラマはそれを採用し「平清盛」をドロドロの怨念劇にしてしまった。視聴率が低かったのも納得できる。

 「子」にとって「父」はどのような意味を持つのだろう。大抵の動物は「父」にはならない。「オス」として精子を提供し、ただ、それだけの存在でしかない。子供は多くは「メス」が育てる。動物のメスは子育てによって「母親」になれるが、「オス」は単なる精子提供の役割しか与えられない。いやいや、カマキリなどは精子提供と交換に自分が食べられてしまう。「命がけの恋?」けれど人間から見れば実に悲惨だ。

 オシドリの「オス」は瞬時の精子提供者に終わることなく、かといって食われもせず「メス」に添い遂げるという。他の動物でも人間と同じように「家族」を持つ者も多い。類人猿がそうだ。ただ多くはライオンのように一夫多妻なので、体力がないと動物世界の「オス」はつとまらない。オスは疲れる。

 理想的な夫婦関係の象徴であるオシドリのDNAを調べた無粋な人がいる。すると子供の70%近くが別のオスのDNAだったそうだ。別のオスが近づいてメスが騒ぐのも、自分の「貞操」を守るためではなく、オスが来ないかを確認するために発するそうだ。「メス」は実にたくましい。

 「オス」にとって目の前の子供が本当に自分の子供か否かはDNA以外確証が持てない。だから自然界では新しい「オス」が来ると前の「オス」の子供は殺される。前のオスの遺伝子を持つ子を抹殺し、自分の子孫を残すための処置だ。似たようなことは人間世界でもしばしば行われる。

 漱石の有名な小説「こころ」では、自分の本当の「父親」が危篤で死にそうになっているのに、「自殺」した「先生」の所に駆けつける青年が描かれる。ここでは「実の父」よりも、血のつながりのない「精神的な父」が青年に選択されている。平凡な「父親」は悲しい。

 人間の「子供」はやがて大きくなり自立し「自分とは何か」を考えるようになる。私は人工授精や代理母の役割を完全に否定するものではないが、自分が子供であったなら、出生の秘密を知った後、きっと複雑な感情に襲われるだろうと想像する。いったい私は誰の子なのかと苦悶するだろう。

 その点、安藤選手には父親が誰かは分かっているし、それを子供に告げるタイミングもはかることが出来る。回りがあれこれ言うことではない。父親の名前を公表しないことくらい、子供の命を闇に葬る「中絶」と較べればはるかに人の道にかなっている。

 日本の中絶は母体保護法に基づく事例だけでも年間数十万に達するそうだ。表面に出ない堕胎数は想像も出来ないくらい多いだろう。戦後の日本では朝鮮人や中国人に何度も輪姦された日本女性を救済するために、特区的な病院として二日市保養所が設置され、公に中絶が実施された。が、その当時とは事情は異なる。闇の中に葬られる子供を「救済」すれば日本の少子化も防げるかも知れない。もちろんそう簡単には運ばないことは分かっているが。

 あるところでは望まれない「妊娠」と違法な堕胎が実施される。かと思うと、望んでも妊娠できない人が存在する。これらをうまく解決できる方法はないものか。

 数十年前に石巻市のK医師が、次のような解決法を編み出した。K医師が仲介役となって双方の情報をまとめる。両者の「利害」が一致すると医者の指示の元に「妊娠プロジェクト」が実施される。

 仲介者の医師は、まず妊娠を公表し定期的に「検診」する。さらに「妊婦」の腹にさらしなどを巻いて徐々に「妊娠」を演出して行く。「妊婦」も出産の準備をし、「偽りの妊娠」を「本当の妊娠」に見せかける努力をし、回りの祝福を受ける。そして本当の妊娠者の出産にあわせて医院に行き、出産した他人の「赤子」を自分の子供として「出産」する。もちろん出生届は実子の扱いだ。

 しかしK医師は1973年に告発される。告発理由は「出生証明書偽造」で罰金20万円の略式命令、「厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。所属関係学会を除名され、優生保護法指定医を剥奪され、国会にも参考人として招致され、最高裁まで行った裁判も有罪のままで終わってしまった。」(ウイキペディアによる)

彼を評価したのは世界だ。81年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサが、来日時にK医師の為に新約聖書のマタイ25:40を読んだそうだ。それは「『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」という内容だ。

やがてK医師は生命重視の功績が認められ、死の4ヶ月前に国際生命尊重連盟国際会議から「世界生命賞」が贈られた。K医師の努力は報われ、やがて日本における実子特例法実現に繋がるのだ。
K医師とはもちろん菊田昇医師の事だ。

 私は、もちろん菊田医師を悪徳医師とは全く思わない。むしろ今になってみれば、これほど少子化に対応できる「出産」は無いように思える。しかし、遺伝的つながりを重要視する人や、法や常識を尊重する人は、今も菊田医師の行為を否定するだろう。

 代理母による出産で生まれた子供は原則として実子扱いにならない。しかも代理母制度は、大金が介在するため先進国の女性による開発途上国の女性に対する肉体の搾取だという考えもある。貧しい国の女性の身体を犠牲にして成立する危険な制度だという批判がある。

 菊田医師は、金になる中絶手術をやめて、「違法」行為を無報酬で引き受けていた。赤子を殺す「中絶」が合法で、「赤子」を救う行為が「違法」だとは。法律に暗い私には理解できないことだ。その後、特別養子縁組制が出来、制限はあるものの養子を実子として戸籍に載せる制度が出来た。

 それにしても、分からないことが多すぎる。年を取れば何もかもが氷解して静かな老後を送れると思っていたが、とんでもない誤りだった。

未だに多くの妄念に悩まされている。凡人は救いがたい。

PS このブログを書いた後、東久留米市の一般社団法人の養子あっせん寄付問題が浮上した。もしこれが事実なら「寄付」に名を借りた人身売買の疑いが生じる。菊田医師の行為とははるかに隔たった醜い行為だ。