【団塊ひとり】再びアンパンマンの「正義」 そして雑感

 真剣に国のことを考えている人、特に若者は必ず投票に行くべきだ。投票率が低くなると組織票に強い政党が当選する。組織票で当選した議員は、自分の所属する組織の利益しか考えない。そんな国に真の未来はない。

官憲に「虐殺」された小林多喜二は幸福だった。少なくとも彼は共産主義に自分たちの未来を託すことが出来たから。民衆から乖離したソビエトの真実とその崩壊、そして中国や北朝鮮の現実を知って共産主義に失望することも避けられたから。

 選挙が近づくと、みな自分たちが唯一正しいとばかりに、政党がそれぞれの「正義」を声高に叫ぶ。だが唯一絶対の「正義」など存在しないことを我々は知ってしまった。芥川龍之介は「正義は相対的なものである」と述べた。夢はいつも甘くはかなく、そして苦い。

 西暦4世紀アレキサンドリアの女性哲学者ヒュパティアは、「地動説」を主張しキリスト教の教義に背く発言をした罪で惨殺された。今の日本では自己の発言で命を失うような状況ではない。それ故に発言は無責任かつ過激で排他的なものになってゆく。

 やなせ氏が「正義」を語っている。「アンパンマン」を創作する際の僕の強い動機が、「正義とはなにか」ということです。正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです、と言っている。

 やなせ氏は続ける。なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はありません。アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。

 でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。(中略)つまり、正義を行う人は自分が傷つくことも覚悟しなくてはいけない。(やなせ氏による)アンパンマンが差し出すパンは自分の顔、身体の一部だ。これこそ究極の「愛」かも知れない。

 芥川龍之介は「正義」は相対的なものであると考えた。しかし「アンパンマンの作者」はそれを実に平明な言葉で、さらに深く述べていた。「困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです」。朝鮮人が嫌いな人でも、飢えて道ばたに倒れている北朝鮮の子供の映像を見たら、「出来ることなら助けてやりたい」と思うだろう。それが普通の日本人の感覚だ。政府の蛮行でその国の民族全てを一様に軽蔑するのは間違っている。日本人の「正義」は少なくとも一部のアジア人のような狭いものであってはならない。

 アメリカは、パキスタンの主権を無視して、裁判も受けさせることなくオサマ・ビンラディンを殺害した。アメリカは自国の「正義」に従って行動した。殺害後のオバマの演説。「夕飯の食卓にある、空っぽの椅子。母親や父親がいないまま成長しなくてはならなかった子供たち。自分の子に抱き締めてもらうことのない親たち。3000人近くが失われ、私たちの心にはぽっかり大きな穴が残されました。」9/11に対する「素直な」感情だろう。

 オバマ大統領の言葉は間違ってはいない。テロや戦争によって子供が理不尽に悲しむ世界はなくならねばならない。ただ、アメリカ軍の「誤爆」によって多くの家族を失ったイラクアフガニスタンなどの子供たちや親たちはどのような思いでオバマ大統領の演説を聞いただろうか。アメリカの「正義」に疑問符がつく。

 やはり、アンパンマンの作者の「正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。」という言葉が心に残る。「困っている人」がおれば、民族や性別や出自や政治的立場にかかわらず助ける。なんと素晴らしい「正義」か。が、現実の人間はそれが簡単なことで無いことを知っている。日本人を「褒める」韓国人や中国人は自国内では仲間はずれにされる。これが世界の現実だ。

 本当に正しい人は韓国人のように「日本への原爆投下は「(神の)懲罰だ」、とか第二次大戦末期のドイツ・ドレスデンへの空襲を「ユダヤ人の復讐だ」などと主張しない。真珠湾攻撃は許されない攻撃と思っても、それは原爆投下の免罪符にはなり得ない。「不正義」に対して正当化される「不正義」は存在するのか。存在するとしてもどこまで許されるべきか。アウシュビッツヒロシマ。(AuschwitzとHirisima)この違いはどこにあるのか。日本人は広島の惨禍を黙って受け止めるしかないのか。私は「本当に正しい人」は、いくら行為を正当化しようとも、非戦闘員への無警告、無差別の大規模殺傷を正当化しないと思う。「戦勝国」であればなんでも許されるという傲慢な気持ちは持たないと思う。

 だから、航空機事故で韓国人が発した「死んだのが中国人で良かった」というような発言を日本人は絶対に口にしてはならない。中国人であろうと日本人であろうと死ななくても良い人が死んだのだ。残された家族や被害者の無念を想像すると、口が裂けても言える言葉ではない。無念の内に死んだ死者に対する思いやりを忘れては人間ではなくなる。大統領が中国に対して藩属国の礼を取った中国に対してあのような非礼。死者が日本人だったら韓国中が歓喜するのだろう。

 朝のTV「あまちゃん」ますます好調だが、あまちゃんが時々「純」のようになる。自己主張に忙しくて、自分以外の世界が見えなくなる瞬間が見える。「甘え」が目につくときがある。今は傷にはなっていないけれど。

 あまちゃんの父親の車が韓国製。ところがあまちゃんに登場するカメラマンのカメラのブランド名はなぜか黒塗り。一眼レフの世界的なシェアーは圧倒的に日本製だから、あの形ではNikonCanonのカメラと思う。ブランド名に黒テープを貼る意味が分からない。

 やがて「あまちゃん」の町にも津波が押し寄せるのだろう。どのような描き方をするのか。登場人物は助かるのか。気になる。

 オープニングで岩を飛び立つ鳥。あの鳥をいつかは捕まえようと、TVに飛びかかったネコは今はどうしているのだろうか。今も相変わらず飛びついているのか。TVは壊れてはいないか。こんな些細なことまで気になってしまう「あまちゃん」は不思議な番組だ。

 日本IBMから発売されているLotus 1-2-3ロータス1-2-3)が、2013年6月11日で営業活動を終了。1年3カ月後の2014年9月30日にサポートを終了することが明らかにされた。PC9800で5インチのFDで親しんだ世代としては、時の流れを感じざるを得ない。