【団塊ひとり】人間の本質は「善」?それとも「悪」?京都大学のレポート。


 少し前に京都大学の研究チームが生後10カ月の赤ちゃんにある実験をした。まず赤ちゃんのグループに、ある図形が別の図形を攻撃するアニメを見せる。その後、ふたつの図形のおもちゃのどちらに手を伸ばすのか観察するとほとんどの赤ちゃんが、「攻撃された側」のおもちゃに手を伸ばしたらしい。導かれた結論は「弱者へのいたわりの気持ちがあるとしか考えられない」だった。

【引用】生後10カ月の赤ちゃんでも、困っている人に同情する気持ちがあるかも−。京都大や豊橋技術科学大(愛知県)のチームがこんな実験結果をまとめ、米オンライン科学誌プロスワンに13日発表した。1歳半以上では同様の結果が報告されていたが、今回の研究は、まだ言葉を話さない、より幼い乳児にも思いやりの心が見られることを示しており、京大の鹿子木康弘特定助教は「人間の本質は『善』だと示唆している可能性がある」としている。(中略)チームは、青い球体と黄色の立方体を「攻撃者」と「攻撃される者」に見立て両者が動き回りながら一方が攻撃者として、もう一方にぶつかる動画を用意。生後10カ月の日本人の赤ちゃん20人に、どちらかの図形が攻撃者、攻撃される者になる動画を見せた後、両方の図形の模型を置き、どちらを手に取るかを観察したところ、20人中16人が攻撃された方をつかんだ。両者がぶつからない動画を見せた別の20人の赤ちゃんでは、偏りはなかった。(産経新聞2013.6.13 より)

 詳細が分からないので即断は出来ぬが、この結論は疑問だ。それほど「他人を思いやる」気持ちがあるのなら、なぜ「陰湿ないじめ」は無くならないのか。原因はどこにあるのか。

 「攻撃する図形」に手を出さないのは、関われば自分も攻撃されることを恐れるからではないか。「攻撃される側」を選んだのは、そうすれば自分に危害を与える可能性が低いと判断したからではないか。攻撃される側に感情移入したと考えるより、自分に危害を与えないような弱い対象、自分も容易に攻撃できる対象を「所有」したいという本能的な欲望が強かっただけではないか。「弱者へのいたわり」が理由とは断定できない。もっと功利的な理由のように思われる。「幼児は天使だ」という思い込みから離れる必要がある。

 ある実験・仮説、そしてそれに対する解釈。解釈の相違が想定外の思わぬ結果をもたらすことは多い。戦前の軍部は真珠湾を「奇襲」してアメリカ海軍に大きな打撃を与えれば、アメリカは戦意喪失し参戦しないだろうと考えた。が、実際はその逆だった。むしろアメリカ国民の怒りに火をつけアメリカの参戦を招いた。西部劇でも有名な「アラモ砦」の玉砕に対して見せたテキサス人の愛国的な行動を知っていればアメリカ人の行動を予測できたはずだ。

 民主的な世界に住んでいる人は、多くは「事実」と、そしてそこから導き出される「真実」をその行動の起点としている。が、「真実はいつもひとつ」かも知れないが、解釈は多様だ。例えば憲法9条と自衛隊との関係。

 憲法機械的に当てはめてゆけば、自衛隊の存在はかぎりなく違憲に近い。しかし現実の世界ではそこから新しい問題が発生する。「自衛隊憲法違反である」という認定は共有出来ても、そこからの行動は一つにはならない。ある人は憲法違反の自衛隊を無くそうと考える。しかし、ある人は自衛隊ではなく憲法そのものを変えようと考える。両者の立場は永遠に重ならない。結局は選挙による決定を待つしかない。それがきっと「いま」なのだろう。 

 さて、話を戻すと一方的に「攻撃される図形」を選んだ者は、自分が容易に「攻撃者」に変化できる。人間の多くは「攻撃される側」よりも「攻撃する側」に立つことを望む。そう考えると「陰湿ないじめ」がなくならない理由が説明できる。

 日本は長い間アジアの中の「攻撃される図形」だった。「攻撃する図形」は反撃しないで一方的に「攻撃される図形」との力関係を変えようとは思わない。

 一方的に「攻撃される図形」に自立と誇りを持たせ、いびつな「いじめ関係」を対等な関係に変えること、それが憲法9条の改正の目的である。だから「いじめっこ」は自分の力がそがれることを恐れて改正に反対するのだ。ずっと「攻撃される側」だった日本が、「攻撃する図形」である中国や朝鮮に断固たる姿勢を取る時期が今なのだ。

 国政のねじれ解消は、日本が「攻撃される図形」から国際法に基づく「対等の図形」に変わるための、必須の過程である。憲法9条の改正も同じ流れである。アジアの一部の国が主張するような軍国主義を目指すものではないことを、まず日本人自身が理解しなければならない。