【団塊ひとり】原爆忌と真夏の昼の夢

 暑い日が続く。いつもなら「青春18切符」を利用して、各地を飛びまわっているはずなのに、今夏はまだ一度も出かけていない。年のせいにしたくはないが、バテたのだろう。

 昨日は長崎に原爆が投下された日だった。長崎が人類にとって原爆使用の最終の場所であって欲しい。いかなる理由をつけようとも、非戦闘員を大量に虐殺する非人道的な原爆を使用することは、明かな戦争犯罪であることを改めて強調したい。

 広島や長崎の果たす役割は、人類初の悲惨な被爆の事実を人々に伝えることだけではない。あまり語られないが、原爆投下の後、100年近くは人が住めない廃墟になると思われた広島・長崎の現在の発展の姿は、そのまま原発災害に見舞われた福島の人たちの復興への希望になり得る。復興のシンボルとしての被爆地。福島の再生は不可能ではないことを、広島や長崎の発展が証明している。復興へのナビゲーター、これも被災地広島・長崎の重要な役割だ。


 あまりの暑さで、不思議な「真夏の昼の夢」とでも言うべき体験をした。ある知らない町に「散歩」に出かけた時だ。突然女性の声に呼び止められた。が、あたりには誰もいない。不思議に思っていると更に声がする。少し電気的な声だ。その声に導かれて着いたところは一軒の古い家。声はインターホーンから流れていたのだ。

 「もしよければ話を聞いて下さい。」奇妙だと思いながらも私はしばらくつきあうことにした。インターホーンは語り始めた。ほとんどがその女性の人生に関わる話だった。それほど起伏のない平凡な物語が、抑揚のない声で語られる。インターホンの声に耳を傾ける初老の男。第三者から見れば実に奇妙で滑稽で、見方を変えれば実に不審な光景だった。でも、だれも私の行動を確かめようとはしなかった。

 小一時間話し続けた後、声が途切れた。やがて、「最後に・・最後に、インターホンのレンズに近づいてあなたの顔をはっきりと見せてくれませんか。」それは最初の細々とした老女の声ではなく、明るく自信のある声だった。私は言葉のままに、レンズに顔を近づけた。顔には自信は無いのだけれど。

 「ありがとう、今日のことは一生忘れません。」そして声は途切れた。私も軽い挨拶を交わして、インターホーンから離れた。そのついでに表札を見てみたが、なぜか名前はなかった。不思議なことがあるものだと思ったが、気にもとめず私はその日の町歩きを終え家に帰った。あまりの暑さで頭がクラクラしていた。

 数日後、私はもう一度あの家を訪れることにした。理由もないのに簡単な手土産を持って、今度はインターホーン越しではなく、直接話してみたい気になったからだ。だが、もうその家はなくなっていた。近所の人の話では取り壊され、跡地に小さな喫茶店が建つそうだ。

 不思議なことに近所の人は誰が住んでいたのか、誰も覚えていなかった。そんなはずは無いと思ったが、ほとんどの人が知らなかった。死んだのか、引っ越ししたのか、それさえも分からなかった。その古い家は誰からも注目されない存在だった。

 大阪は古い町だ。特に大阪城の近くはさまざまな戦いのあった場所だ。ビル建設のため土地の掘削を始めると、いまだに鏃や人骨が出ることもある。数百年前「夏の陣」「冬の陣」と激しい戦闘が行われた場所に我々は意識せずに住んでいる。現代人は、こうした歴史の上に生活しているのだ。知識として存在しても、実感を伴わない存在として「死者」は地下に眠っている。「死者」もたまには、今の世の人間に話しかけたいと思うことは無いのだろうか。

 インターホン越しの取るに足らない短い会話は、本当に存在したのか。いったい誰が私に話しかけてきたのか。今となっては、暑い夏の昼のちょっとした妄想に過ぎなかったのかもしれない。