【団塊ひとり】「はだしのゲン」の閲覧制限と作品に見られる「天皇観」

 漫画「はだしのゲン」の閲覧制限について賛否両論が飛び交っている。が、「制限」であって「禁止」ではないことはあまり問題になっていない。ある人は「作品に残酷な描写があるのは、戦争や原爆そのものが残酷であり、それを表現しているからだ。」といって表現の自由から閲覧制限に反対する人もいる。閲覧制限は表現の自由と相容れないものだという主張だろう。

 それに対して、松江市議会に「はだしのゲン」の撤去を求める陳情をした自営業の男性は、自分は歴史認識の誤りを問題にしたので、描写を問題にしたのではない、と不満を述べている。

【引用】松江市議会に「はだしのゲン」の撤去を求める陳情をした自営業の男性(35)は21日、朝日新聞の取材に応じた。「市教委は、ぼくが(不採択となった陳情で)訴えた歴史認識の誤りではなく、描写を問題にしており、不満はある」「こんな漫画を義務教育の学校図書館に置くべきでなく、読みたければ自分で買って読めばいい」と持論を述べた。

 男性は、昨年10月まで松江市に住み、いまは高知市在住。昨年11月には高知市議会と高知県議会にも「ゲン」撤去を求める陳情をしたという。松江市教委を数回訪れ、「ゲン」撤去を要求して職員と押し問答する様子を撮影した映像を動画投稿サイトにも投稿。自身の活動について「国益を損なう行為が許せない。日本人としてふつうのことをしているだけ」と述べた。(朝日新聞デジタル

 「はだしのゲン」は単に原爆被害の悲惨さを描いただけのものではない。例えばその天皇観。ゲンの仲間は次のように発言する。「殺人罪で永久に刑務所に入らんといけん奴はこの日本にはいっぱいいっぱいおるよ」。「殺人罪」とは戦争で多くの人を殺害したことをさすのだろう。ゲンの仲間は更に次のように言う。

「まずは最高の殺人者天皇じゃ。あいつの戦争命令でどれだけ多くの日本人アジア諸国の人間が殺されたか」しかし、この考えはあの差別的な東京裁判天皇観とも異なる。サンフランシスコ講和条約においても、天皇が自国の戦争に責任を負うべきものがあることを承認するという条項は無い。意見の違いはあっても、政治的なかけひきであっても戦勝国は公的には天皇の戦争責任は認めてはいない。まして「ゲン」の天皇観は日本国憲法天皇観とは明らかに異質のものだ。あえて言うならば中国や朝鮮の天皇観に酷似している。

 戦争は指導者の戦争命令によって「殺人」が行われる。「正しい戦争」「不正義の戦争」という色分けは政治的なものだ。従って論理的には戦争を「命令」した欧米の指導者も、毛沢東スターリンなども同じ「殺人者」のはずだ。が、現実的にそれを公的に認める国はない。

 「はだしのゲン」は長い間、日教組などの組合教育の聖典であった。戦争の「真実」を描いていると賛美されてきた。が、正しくは一人の物語作家の目を通した主観的な「物語作品」の一つに過ぎない。客観的に歴史を描いたものではない。「歴史」として絶対視すべきものではない。絶対化してしまうことで、読者に思考停止を迫る危険性がある。

 「ゲン」は原爆の恐ろしさを描いたという意味で、歴史に残すべき作品かも知れない。が「はだしのゲン」を全肯定することは、「ゲン」の天皇観を肯定することになる。そして「ゲン」の天皇観は明らかに日本国憲法で示された天皇観と異なっている。単なる「表現の自由」の保障という次元で片付けるべき事ではない。