【団塊ひとり】「はだしのゲン」の歴史認識

はだしのゲン」は一人の作家の「主観」(歴史認識)によって創作された「物語」で「歴史」ではない。そのことが認識されていないのではないか。

 「天皇は処刑されるべき犯罪人」という「ゲン」の思想は、明らかに日本国憲法や、多くの日本人の考えとは異質のものだ。また「ゲン」で展開される国旗や国歌についての思想は日本の「国旗及び国歌に関する法律」に明らかに違反している。このように憲法や法律に明らかに違反する漫画を、税金でまかなわれる公立の学校図書館で閲覧「制限」をするのは当然だ。

 閲覧制限について意見がかみ合っていないところがある。制限反対者は「ゲン」を原爆漫画と主張する。が、閲覧制限派は原爆を素材とした反日漫画だと主張する。この点で両者の考えは全くかみ合っていない。「ゲン」の前半は確かに原爆を描いた漫画だ。しかし後半部分は、史実の裏付けのない日本軍の「蛮行」や天皇の戦争責任に及んでいる。

 ある人は「ゲン」の描写が残酷であると言うだけでなぜ閲覧制限を受けるのか、表現の自由侵害と騒ぎ立てる。が、その人達の真意は「原爆」を反日無罪の「免罪符」として、史実の裏付けのない日本軍の「蛮行」や天皇の戦争責任を主張することだ。巧妙な論理のすり替えが行われている。

 私は「はだしのゲン」の閲覧「禁止」には反対だ。例え「反日」であっても、「知る権利」「表現の自由」を犯してはならないと信じるからだ。もし「禁止」してしまえばナチスや中国や朝鮮のような野蛮な国家と同じになってしまうからだ。

 私は日本の「神話」が好きだ。これこそもっと学校で教えるべきだと思う。今の若者はあまりにも「日本神話」を知らないからだ。しかし、「日本神話」は軍国主義の象徴として戦後の教科書からは放逐されてしまった。たしかに、「日本神話」は「歴史」そのものではない。当時の朝廷に都合の良いように改変された「歴史物語」であると思っている。が、だからといって学校で触れないのはいかにも不自然だ。

 「神話」と比較するのは不敬のように思われるが、「はだしのゲン」も一人の作家(あるいは共産党)の「主観」(歴史認識)によって創作された現代の「歴史物語」である。「歴史」そのものではあり得ない。一種のプロバガンダだ。が、NHK朝日新聞を始めとするマスコミは、まるで「事実」そのものを描いた「歴史書」のように取り扱う。これこそが問題だ。

 「はだしのゲン」を公立の学校図書館で閲覧「制限」することは不自然ではないと考える。私は、「ゲン」を支持する人たちの多くが、かつて新しい歴史教科書をつくる会が発行した「教科書」採択に猛反対した事を覚えている。このときは「制限」ではなく、「禁止」だった。彼等の「表現の自由」を守るという主張は偽物だ。

 我々は「ゲン」を強く推薦する教師・マスコミの人間・政治家に問いかける必要がある。なぜ「あなたたちは未だに天皇戦争犯罪人として処刑を望むのか」。特に「ゲン」を強く推薦する民主党の海江田代表や民主党社民党共産党の議員団にはその理由を説明する義務がある。「ゲン」を原爆を描いた作品としてのみ宣伝するのは、明らかに論理のすり替えがある。「ゲン」の真意はそこにとどまらない。

 残念ながら松江市教委は「市内の小中学校に漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を求めたことをめぐり、市教委は26日、臨時の教育委員会会議を開き、暴力描写や歴史認識について内容に踏み込む突っ込んだ議論は避け、「手続きの不備がある」として制限要請の撤回を決めた。」(産経新聞)特定の政治的な圧力に屈したのだろう。

 「はだしのゲン」は「歴史書」ではない。
 最後は親や教師の姿勢が問われる。やはり「ゲン」を子供に紹介するとき、「ここに書いてあることは全て真実なのだ」と教えるべきではない。「ゲン」は一人の作家の主観と、特定の政党の主張が強く反映されていることを、きちんと子供達に伝えるべきだろう。その上で子供達の判断を信じるべきだ。それこそが公正というものだと信じる。