【団塊ひとり】NHK朝のTV小説「あまちゃん」と東日本大震災

 明日は「震災の日」、NHKの朝ドラもいよいよ3.11当日になった。子供時代、石巻で過ごした人間として切ない瞬間がどう描かれるか、月曜が気がかりだ。

 震災の発生は勤務先の若者に教えられた。「偉いことになっている」と携帯の画面をみせられて知った。画面ではまるで巨大なアメーバのような存在が田畑を飲み込んでいる情景が映っていた。仕事など手に付かず、しばらく画面を眺めていた。

 家に帰ってすぐ石巻の知り合いに電話した。当然電話は通じない。次の日も次の日も電話は通じない。混乱が予想されたので手紙は出さなかった。それから避難場所のサイトで名簿を見る日が続いた。手書き文字で作成された「名簿」や安否情報を見る日が続いた。時間ばかりかかりもどかしかった。

 そのうち知人の若者が便利な方法で調べてくれて、たちどころに同姓同名の人物が数名上がった。条件に当てはまる人にメールをすると返事が戻ってきた。孫が祖母の安全情報を流してくれていたのだった。あのときほどネットの力、若者の親切を感じたことはない。

 やがて電話が通じるようになった。偶然、最初にかけた人間が私だったらしい。津波が来たとき真っ先に逃げたのは「亭主」で、取り残された自分は1週間ほど避難所で過ごし、食事は一日おにぎり一個の生活だったと電話で聞いた。中途半端な慰めをかけられなかった。

 どうしても会いたいと思ったが、もちろん石巻市の宿泊施設の多くは被害を受けているし、そうでないところは復興作業の為の業者が借り切っている。が、7月末の恒例の石巻の川開きには参加したいと思った。川開きと花火大会はもともと鎮魂の行事であった。もちろん、その年の花火大会はきっと特別なものになるだろうと思った。

 結局仙台に宿を取り、石巻に行くことにした。今でも覚えている。東松島に着く寸前だった。突然涙が出てきて、それも声は出ないのに身体まで大きく震えるのだ。知人は誰も亡くなってはいなかったのに、それでも身体が大きく震えるほどの悲しみが襲ってきたのだ。

 恩師に会い、いろいろな人と話をし無事を喜び、そして夜の「花火大会」に参加した。瞬間に消えるはかない花火。が、それ故にきっと一生忘れないと思う花火。子供の頃が一瞬に蘇ってきた。しかし友達と遊んだ広場や、父に連れて行ってもらった「岡田劇場」という映画館はもう跡形もなかった。

 この年でフラッシュバックはないだろうが、それでも月曜の「あまちゃん」が多少心配だ。きっとTVの前で涙を流すのだろう。それを見てかみさんは私を冷やかすのだろう。孫のような「あまちゃん」の世界に、いつしかどっぷりつかっている自分におどろいている。