【団塊ひとり】温暖化と原発 シロクマくんの嘆き

団塊ひとり】温暖化と原発

 読売新聞の25日のコラム「よみうり寸評」でロバート・ストーン監督の環境ドキュメンタリー映画「パンドラの約束」がとり上げられていた。昨年、全米で公開され日本での公開は4月12日と当分先だが、YouTubeで予告編を見ることが出来る。だが、まだ再生回数は少ない。

 「寸評」は次のように記す。「実際に見て意外だったのは冒頭だ。原子力発電の必要性を訴える映画と聞いていたが、その危険性や反対運動を紹介する場面が続く。反対運動にも参加した環境活動家が当時を振り返る」

 「続いて今。「原発は必要」と話し始める。彼らは原発支持に転じたのだ。地球温暖化問題の深刻さに直面したことが転機と語る。温室効果ガスを出さずに電力を安定供給できる原発は不可欠という。ストーン監督も最近まで反対派として知られていた。福島県の映像も紹介される。」(寸評)

 福島の原発事故が起きる前、多くの日本人は原発の存在に肯定的だった。その最大の理由は地球温暖化を阻止する手段として原発が最も効果的であると信じたからだ。そしてそれは誤ってはいない。だが、いま多くの日本人は地球温暖化より原発の危険を優先するようになった。

 震災関連死を除けば、福島原発事故での直接的な被爆死はゼロに等しい。が、一部のマスコミの報道を見ていると福島は今後も永久に死の町になるように描かれる。だが、世界初の原爆を落とされた広島や長崎は見事に蘇っている。被爆の町広島・長崎は、同時に再生の町でもある。福島を「死の町」のように表現することは、被災地に対していわれのない差別を増長させる危険性を伴う。

 それにしても、あれほど熱狂的に支持していた地球温暖化阻止の運動はどうなったのだろうか。北極の氷がこれ以上溶けて行くと、シロクマは絶滅の危険に遭遇する。海抜の低い国は水没の危険性が発生する。化石燃料の大量使用に伴う地球温暖化に本当に無関心でいいのだろうか。

 もし北極のシロクマが手紙を出せるのなら、内容はおおむね次のようになるだろう。

「お久しぶりです。あなたの国が地震、そしてその後の大きな津波で大変な被害に遭ったことをまずお悔やみします。渡り鳥のジョンの連絡で知ったときは驚きました。たくさんの人間や動物がなくなったそうですね。

 こちらはだんだん暖かくなり、氷も少しずつ溶けています。そのせいでぼくの大好きなアザラシもなかなかつかまりません。氷が少なくなるとアザラシが逃げるチャンスも増えるからです。海の中では彼らはすばやく、ぼくには手も足も出なくなります。毎日が空腹です。ずいぶんやせました。気持ちもなえてきました。

 最近は人間の捨てたゴミの中にあるわずかばかりの食べ物を探しています。惨めな気持ちです。むかし人間達を自由がないとか、奴隷根性だとかからかっていたけれど、いまは素直にうらやましく思っています。ぼくは変わってしまいました。

 それにしても、あなたの国はどうなったのですか。あれほど北極にいるぼくたちのことを思って、氷が溶けないように努力してくれていたのに、最近はすっかり忘れてしまったようですね。放射能がどういうものかぼくは知りません。でもかつては温暖化を防ぐ切り札として宣伝していたではありませんか。とにかくいまぼくは生きることが大変です。これ以上氷が溶けてゆくともうぼくは生きてゆく自信がありません。どうか弱いぼくのために祈ってください。

 もちろん、やがては危険な原子力に頼らない世界を目指すことは必要だ。しかしそれは今すぐという訳では無い。福島の原発事故も原子炉そのものの本質的な問題では無く、電気系統の不手際による、いわば避けられた事故だ。事実、被害の無かった原発も多数存在する。それを無視する議論は危険だ。