【団塊ひとり】佐村河内氏問題と慰安婦問題との共通点

 CDの出荷やインターネット配信が停止となった佐村河内氏アルバムが「ヤフオク!」に出品殺到、値も高騰しているとか。公共放送で特定の私企業に肩入れしてはいけないはずのNHKの宣伝で大量販売に成功したクラッシック曲。異例の売れ行きの実態て「こんなものだったの?」

 実は私もCDを購入した一人だ。私が佐村河内氏の「交響曲第1番 HIROSHIMA」を購入したきっかけはNHKの番組だった。特に被爆二世・「現代のベートーベン」・東北の地震被害者への支援という「殺し文句」に惹かれたためだ。番組を見て、CDを購入することは彼への生活支援だとも思った。NHKが紹介した「苦しむ作曲者の姿」がCD購入を後押しした。

 だが、彼の苦しむ姿、広島の被爆者や東北の被害者に対する同情的な発言、そして聾者であることによる「現代のベートーベン」像はすべて「ウソ」であったようだ。そしてその「ウソ」を補強し拡大し「詐欺」に加担したのが、何度も特集番組を放映したNHKだった。NHKが今回の不祥事に全く無関係であると言うことは出来ない。NHKはなぜ彼を取り上げ神格化し、大々的に宣伝したのか。その過程で金銭的な授受がなかったのかを視聴者に説明する責任を負っている。でなければやがて訴訟に発展してゆくだろう。

 不祥事が発覚してから私は交響曲「HIROSHIMA」を聞き直してみた。この曲も本当の作曲者によれば、原爆とは何の関係もなかったようだ。私は、あえてCDではなく録画しておいた日本フィルのDVDを見た。「作曲者」が演壇に呼び出されるシーンがあって、その姿を見る人はみな慈愛にあふれ、何物かに帰依しているのではないかとさえ思われるほどだった。立ち上がって拍手する女性が居る、涙を拭いている女性が居る。指揮者も楽団員も彼を最大級の賛辞で迎えていた。その時の彼の姿は何かの教祖のようにさえ感じられた。変なデジャブ感が感じられた。

 あらためて曲を聴いてみると、マーラーブルックナーなどのさわりがうまくまとめられているようだった。「現代のベートーベン」と言えるほどではないと感じたが、それなりにいい曲だと思った。高橋大輔氏がオリンピックでの演技曲を変更しないのは、今更変えられないという緊急避難的なものだけではなかろう。素直に感動していたからではないだろうか。いいものはいいのだ。

 日本の現代作曲家の場合はよほど有名な人でも、なかなか作品を演奏できる機会はない。もし新垣氏が、大学の非常勤講師の資格で本名で出版したら、たぶん演奏される機会は少なかったのではないか。ましてマスコミで取り上げられることはなかったと思われる。マスコミで話題になるためには、被爆二世・「現代のベートーベン」という世俗受けする「殺し文句」が必要だったのだ。だから、それを使える人間に自己の作品の発表を托そうと思ったのは理解できないことでもない。例え自分の名前が出なくても、自分の作品が演奏され理解されることが出来たら満足という気持ちは理解できる。その気持ちを利用されたとしたら、同情できなくもない。

 それにしても最近の日本社会は少しゆがんでいるのではないか。一流ホテルやデパートの偽装食品。最近まで地球温暖化阻止に効果的だと言って支持していた原発を、いとも簡単に反原発に転換するという変わり身の早さ。そして今回の事件。「××ホテル」での食事、「△△が推薦」「障害者」「被爆者」「被災者支援」という言葉が肥大して、われわれの思考を曇らせているのではないか。

 オリンピックを前に日本はもう一度社会を点検し、浄化すべき所はきちんと直しておくべきだろう。その意味で「維新の会」が河野洋平の国会審問を要求したことは重要だ。佐村河内氏についても少数の人が疑義を抱いていた。同じように「慰安婦問題」については産経新聞などがさまざまな矛盾を指摘している。「真実はひとつ」。もし今までの「常識」に誤りがあるとしたら、それは正されねばならないのだ。ここでもNHK朝日新聞、そして河野洋平氏の姿勢が問われている。