【団塊ひとり】なぜ中韓は日本に対していつも「ヒステリー」になるのか

 偏見や固定観念から自由になることは難しい。特に自分に都合のよい偏見から逃れることの出来る人間はほとんどいない。偏見を打ち破るのは「事実」だ。だから常に問いかけよう。イデオロギーやプロバガンダに惑わされるのでは無く、実際に行動している姿から判断すべきだ。何を「述べているか」では無く、「どう行動しているか」を重視することだ。それは完璧ではなかっても、「きれいで不誠実な言葉」に対する小さな防御になるだろう。

 中国も韓国も自分たちは自由と正義を愛する「文明国」と宣伝し、日本人は「殺戮と暴力」を国民性として持つと攻撃する。ではたかが地震や台風が発生しただけで「文明国」にあれほどの暴動・略奪が発生し、「野蛮国」であるはずの日本で暴動・略奪が発生しない理由はなぜか。言葉と行動が矛盾している。

 原爆投下を命令したHarry S. Truman大統領は、公民権運動を支持はしたが、実は白人至上主義を標榜するKKKの団員だった。彼は原爆投下に対し「獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない」と言ったそうだ。では原爆で殺された広島の日本人は「獣」だったのか。もちろんノーだ。だいいち、当時の広島にはアメリカ人の戦争捕虜も収容されていたではないか。もちろん日本以外の国民も多数存在していた。もしかしたらトルーマン大統領にはアメリカ人捕虜も「けもの」に見えたのかも知れない。日本人「けもの」論は、原爆投下によって多数の「非戦闘員」を殺戮する非道な行動を正当化するためのトリックにすぎない。そこには「正義」は存在しない。もしこの論理を正当化すれば、核保有国同士の核戦争で地球が滅亡するときは地球人が互いに相手を「けもの」と認識したことになるのだろう。が、それでは「けもの」に失礼だ。

 Australiaも長く白豪主義(White Australia policy)を国是とし、有色人種を排斥差別していた国だった。彼等が「オーストラリア先住民」(アボリジニ・アボリジナル)に加えた迫害は過酷だった。白人は彼等を人間扱いせず、スポーツハンティングと称して多くのオーストラリア先住民を楽しみながら殺害した。しかも、その時彼等は「10人殺した」ではなく、「10匹やった」と記録した。また無人島に置き去りにして餓死してゆく様を楽しんだりもした。

 戦国末期に日本にやってきたキリスト教の宣教師は本国に送った書簡で「日本人は人間と判断できます」と記している。ということは多くのアジア人を「人間」とは見てこなかったことを意味する。だから「平等・博愛」を説きながら平気で奴隷貿易を実施できたのだ。会田雄次氏も書いているように日本人捕虜の前で平気で裸で歩く「英国婦人」は、羞恥心を知らないのではなく日本人を「人間」と認めていなかったからだ。われわれもイヌの前で自分の裸を恥じることはない。

 中国や韓国の「主張」を見ていくと、「敗戦国日本」が何を偉そうに、と言う考えが心底にあるように思える。それを支えているのは自分たちは「戦勝国」だという「勘違い」ないしは「誤った歴史認識」である。そもそも併合によって「日本人」になった「朝鮮人」は日本と共に連合国とは闘ったが、日本と戦争状態にあったことは一度もない。中国に至っては建国が1949年だから、戦争終結後数年が経っている。だから中韓はこれから日本と戦争でもしない限り永遠に「戦勝国」にはなれない。この当たり前の事実を受け入れることが出来ないので、彼等は日本に対しては常にヒステリー状態にならざるを得ない。彼等の「戦争願望」は一種の「劣等感」の屈折した現れだ。この理不尽な態度を我々は認める事は出来ないが、彼等の惨めさを理解する必要はある。「劣等感」そしてその裏返しの「根拠のない優越感」は時々とんでもない暴発を起こす。実に危険だ。

 我々はもう一度原点に戻って「日本人は世界でどのように評価されているか」ということを見つめ直す時ではなかろうか。南極海での捕鯨「禁止」決定でなぜ日本の論理が受け入れられなかったのか、を手始めに我々自身をもう一度見直すべきだ。その上で主張すべき所はきちんと主張して行くべきだ。正すべき所は妥協せずに、徹底して訂正を要求すべきだ。もう鯨肉は「日本の文化」的な発想では世界を納得させられない時代になっている。世界を説得できる論理、自分を変えて行く勇気、それらが必要な時代になっている。