【団塊ひとり】 白土三平「カムイ伝」の投げかけるもの

 京都で線路に寝そべったりしている写真を投稿して「補導」された大学生が出た。それをまた報道の形を借りたTVのバラエティ番組が取り上げる。あれほど世間で非難されたのに、また同じような行為が繰り返される。この手の「アホな行為」がなくならないのは、TVと視聴者との奇妙な連帯意識が原因だ。視聴率を追いかけるTV局の営業方針と個人の顕示欲の合体という共通の利益がなくならない限り、これからも同じ事は繰り返されるだろう。

 ある社会が存在すれば、そこには統治機構を支える表には現れない何らかの意志が存在する。

 団塊世代の一人である私はかつて白土三平の劇画「カムイ伝」を愛読した。左翼的発想で書かれたと言われる劇画だが、反戦デモには参加せず、民族派とも無縁だったノンポリの私でも引きつける力を持っていた作品だったと思う。

 いまは話題にも上らなくなったが、今から考えると一時期なぜあれほどもてはやされたのだろうか。あの作品が全共闘的な考えを代表していたからだろうか。いやそれだけなら天皇を敬愛し三島を読んでいた私が共感するはずはない。

 「カムイ伝」の時代は服装や髪型や住む地域や言葉遣いを厳しく管理することにより、身分を徹底的に視角化し、差別的な社会構造を完成させた江戸時代である。だが江戸幕府の最初の将軍である家康が、実は彼が抑圧の対象とした「賤民」の出身者であったというのが「カムイ伝」の一つの基本的な思想である。ユダヤ人を差別し、彼等に対する憎しみをドイツ国民に植え付け、その差別意識統治機構の基本に据え虐殺を正当化したナチス。そのナチス党の総統ヒトラーが実はユダヤ人だった、というヒトラーユダヤ人説に似た発想だ。

 支配階級にとって下層農民と「非人」の協力は体制を揺るがす危険な種になりかねない。そこで支配者は自らに向けられる不満をそらすために、両者を対立させる為にあらゆる手段を使う。そして一部の覚醒者以外はその事に気付かない。なんだかいまのアジア情勢に似ている。そして現代ではマスコミがそれに大きく関与する。あるものは政府と、あるものは反政府勢力と、そしてあるものは反日的な外国勢力と共闘して日本を支配しようとする。「カムイ伝」の世界と同じで実に複雑だ。。

 私は白土三平の研究者ではないから、見当違いの認識かも知れないが「カムイ伝」を賞賛するのは左翼に多いと言われる。が、「カムイ伝」には右とか左とかを超えた思想が含まれているような気がする。問題が複雑に絡み合っていて、左翼や右翼という単純な思考では解決できない問題が示されている。
 
 第1に「人民」が時には衆愚的・暴力的に描かれている点だ。劇画の中の「人民」は一揆を起こすほどの激しいエネルギーを持ちながら、単純な情報操作で崩壊する。本当の敵を見失い、自分たちの味方を激情に駆られて殺害してしまう。

 例えば、父が下人で母が非人である生い立ちを持つ百姓の正助。自身の妻も非人であるカムイの姉という設定だ。そして、彼は下人と非人が差別なく暮らせる社会を夢見て努力する。あるときは成功したように見えるが、最後に彼は、彼自身が最も期待を掛けた百姓達の手にかかって殺されてしまう。

 正助の最後は、権力者側の想像も出来ないほどの策謀によって仕組まれたものだ。一揆で逮捕されたものの中で、正助だけが生還する。普通あり得ないことだ。そこで村人達は正助が権力側と何か取引をしたと思い込む。が、正助の舌は切られていて彼には弁解することができない。そして百姓達は自分たちの指導者を、自分たちの手で殺害してしまう。
 
 その他、非人の頭目でありながら武士の手先となり、百姓や非人との間を裂くことにより自分の権力の温存を図ろうとする横目。彼は被差別の出身でありながら、むしろ差別構造の温存を図っている。そこに自分の進むべき道を見つけている。その他武士でありながら非人と同じ思想を持つものが描かれる。当たり前であるが、単純に「○○である」というだけでは割り切れない世界が描かれている

 人間は、それぞれが自分の見たいものだけを「見」、自分の聞きたいことだけを「聞く」存在であるという。「カムイ伝」に対する評価も同じだ。少なくとも私にとっては、武士であるから、非人であるからといった単純な図式では説明できない世界に思える。「カムイ伝」は教条主義的な「はだしのゲン」よりも、はるかに現代的な問を投げかけている作品のように思える。

 原発=完全悪、集団的自衛権軍国主義化というあまりにも単純な図式を、国会議員さえも口にする現代だ。劇画の世界に遠く及ばない思考と言える。

カムイ伝」は発表後数十年経ってもまだ完成しないが、一因が単なるドグマに終わらないその複雑さにあるのかもしれない。その意味で「カムイ伝」はもっと評価されても良いのではないかと思っている。