【団塊ひとり】なぜ子供は親を選択できないのか DNAと法律と

 昨日のNHK朝ドラ「花子とアン」では白蓮の失踪事件の発端が描かれていた。ドラマで白蓮の相手宮本龍一として登場する人物のモデルは宮崎龍介と言われる。龍介の父親は孫文を初めとする中国の革命家達を支援した宮崎滔天だ。滔天の銅像は南京で孫文銅像と並べて建てられている。また白蓮夫妻も孫文誕生九十年の祝典で中国に招待され、毛沢東周恩来と臨席している。こう考えると「朝ドラ」もとてつもない大きな世界を背景に据えているのだ。

 白蓮と「宮本龍一」との関係は、現在で言えば「不倫」の一言でかたづけられてしまうだろう。が、姦通罪が存在した大正時代では、不倫は旧刑法353条に規定された「立派な」刑事犯罪である。露見すれば男性も女性も牢獄につながれる可能性がある。そして両者は犯罪者として社会的な制裁を受け全てを失う危険性がある。そういう背景での二人の選択と行動だ。

 漱石の「それから」が胸を打つのは、主人公の長井代助が自分の全てを捨てる事を覚悟して、友人の平岡常次郎の妻である三千代と生きようと決意する点である。家から勘当され社会的地位を失う事を代償にしても、一人の女性と共に「愛」に生きようとする決意の強さが、心を打つのだ。だから小説の背景から「姦通罪」という軛を取り去り「平成的思考」でのみ理解しようとすれば、「それから」という表題の重みはずいぶん薄められてしまうであろう。

 先日最高裁が三つの「複雑」な裁判に一つの結論を出した。

 三つの訴訟に共通していることは、婚姻中にある「妻」が、夫以外の男性と性的交渉を持ち、その結果生まれた子供の「法律上の父子関係」を争っている点だ。下品な言葉で言えば「不倫」の結果誕生した子供の「所属」を争ったのだ。

 「報道によると、北海道と関西の訴訟では、いずれも母が子の代理人となって、夫との親子関係がないことを求めていた。子どもが生まれた当時、母と夫は婚姻関係にあったが、子どものDNA鑑定を行った結果、別の男性が父親であるとの結果が出た。1審、2審では、父子関係を取り消した。

 一方、四国の訴訟については、元夫側から父子関係の取り消しを求めたものだった。妻との婚姻中(現在は離婚)に生まれた5人の子どものうち、2人についてDNA鑑定を行った結果、別の男性の子どもであるとの調査結果が出た。1、2審ともに父子関係の取り消しを認めなかった。」(弁護士ドットコム)

 DNA型鑑定により法的な父子関係が覆るかどうかが争われた訴訟で、最高裁は17日、民法の規定に基づく「法律上の父」が血縁よりも優先するという判断を示した。民法を重視するこれまでの姿勢を貫いた形だが、家族の実態と民法との乖離は広がっており、子どもが不利益を被らないよう、対策を求める声が強まっている。(読売新聞)

 最高裁は北海道と関西の訴訟については「妻が婚姻期間中に懐胎した子は、夫の子と推定する」という民法772条に基づいて下級審の裁定を差し戻し、四国の訴訟については「嫡出否認の訴えは、夫が子の出生を知った時から1年以内に提起しなければならない」という民法777条の規定を適用して下級審の判決を支持した。要するに最高裁はDNA鑑定の結果よりも法律の条文に従ったのである。

 が、この判断はおそらく原告にとって受け入れがたいものではなかろうか。なぜなら、北海道と関西のケースでは「元妻」は現在の「夫」、すなわち生物学上の「父」を子供にとっての「法律上の父親」と認定出来ないことであり、四国のケースでは「妻」に去られた「夫」は血のつながりのない「他人の子供」を「自分の子供」として育てなければならないからだ。

 私は法律の専門家ではないので、法律的解釈や判断は感想の領域を出ることは出来ない。そして感想で言えば、どちらも子供にとって幸福であると断定は出来ないのではないかという事だけだ。

 DNA鑑定による「本当の親子関係」を優先するか、血縁よりも「育ての親の愛情」を優先するか。問題はそれほど単純ではない。法律が考えるほど人間は単純で割り切れるものではない。まして法律が制定されたときの社会状況と現在とでは、想像以上の変化が存在するという現実をどれだけ考慮するかという問題がある。

 そして法律に決定的に欠けているのは子供からの視点だ。親子関係の決定に子供の感情・選択が入っていないことが問題だ。

 例え生物学上の親子でなくても、実の親子以上に深い「親子」関係が成立する場合もあるはずだ。人間の親子関係は「親」の都合だけで決まるものではない。「子供」の視点も無視できないのではないか。生物学的には、子供は常に「I was born.」であり常に受け身である。が社会的な存在としての「こども」は、もう少し自由であっても良いのではないか。子供にも親を選択する権利を与えても良いのではないか。

 「真剣」に愛し合っている男女は、例えそれが世間で言う「不倫」と呼ばれるものであっても、気にはしないだろう。むしろ妻や夫という法律的な立場を求めず、ただひたすら愛情を求め合うのではないか。それで満足なはずだ。だが子供はそうはいかない。親の「無責任」が子の幸福を奪って良いはずがない。

 血のつながりか、育ての親の愛情か。これがもっとも痛切に現れるのが、出生時の「赤子取り違え」だろう。病院の無責任な処置の結果取り違えられた「赤子」。それが長い年月の後、DNA鑑定などによって「本当の親子関係」があらわになる。その事によって発生するいろいろな問題。生物学的な親と育ての親の苦悩と「こども」の苦しみ。ただ今回はそれとは違うのは明らかだ。「妻」側に多くの問題がある。それでも判決から違和感を完全に取り去る事は出来ない。

 法律は本来保守的なものだ。そして多くの人間も保守的な存在だ。だから前例主義に陥り新しい考えを取り入れようとしない。世の中にはこうした守旧派で充ち満ちている。が、新しい状況に対応できなければ先にあるのは衰退・滅亡の道である。だが法律見直しがいかに困難であるかは「憲法」問題が示している。先は長い。