【団塊ひとり】日本国憲法と「猿の惑星」のザイアス博士

 昔「猿の惑星」という映画を見た。なぜかオランウータンのザイアス博士の存在が忘れられない。彼は自分たちが信じてきた歴史観や世界観が根本的に覆ることを恐れ、新しい知識や考えを危険なものとして排斥する。彼らにとって、この世界を支配するのは「猿」であって、人間は下等で抑圧されるべき存在でしかない。彼は自分の世界観と異なる「事実」が発見されると、それを隠蔽し自分たちの歴史観を守ろうとする。彼らには、新しい知識や歴史観は危険でやっかいなだけで、絶対に認めるわけにはゆかない代物なのだ。が、このような人間は今の日本でも存在するのではないか。

 夫婦別姓を認めない民法の規定が憲法に違反するかどうかが、最高裁大法廷で審理されることになった。初の憲法判断が下されることになる。アジア系の移民や帰化の増加に伴い、夫婦別姓が問題になることは予見されていたはずだ。夫婦別姓が日本社会に必要なのか否か、判断しなければいけない時代がやってきた。

 私の知人にも、事実上の夫婦別姓を実行している人が何人もいる。もっとも、私自身は、別姓にしたいとは思わない。が、歴史を少しひもといてみれば、日本も明治民法以前では必ずしも夫婦同氏であったとは言えない。ものの考え方、常識は時代とともに変化してゆくことはむしろ自然である。

 戦前ほどではないにしろ、今でも多少の「菊のカーテン」に包まれている天皇家も、万葉時代はもっとおおらかだった。「讃岐典侍日記」や「とはずがたり」を読まれた方は、そこに出てくる天皇の人間くささに思わず引き込まれてゆくに違いない。

 人間の体も内部では激しい細胞分裂が発生している。ミクロ的な次元で言えば、10分後の「人間」の「体」は、「10分前」の「体」とは違った存在だ。このように「変化」することはむしろ自然な現象と言える。

 もちろん細胞分裂という「変化」も、成長のための必然的なものと、「癌」のように人を滅亡に導くものがあるので、「変化」そのものを無条件に支持することは出来ない。

 夫婦別姓を認めることは、単なる法律の改正ではなく、憲法解釈の変更あるいは憲法一部改正につながる「変化」であり、近代以後の日本社会の構造を根本的に変える変化になる。だから、慎重な議論が必要だが、検討そのものを否定することがあってはいけない。

 いまや守旧派とでも呼ぶべき「護憲派」は憲法改正を全く認めようとしないが、70年前に制定された今の憲法が、すっかり古びてしまって所々ほころびが出ていることは事実だ。夫婦別姓だけではなく、同性の結婚、女性の再婚規定など多くの法律の規定が現状に合わなくなってきている。

 夫婦別姓を認めないのは時代遅れとして批判する民主党などが、時代遅れの憲法9条に関しては、改正を検討することすら認めない姿勢を示すことがわからない。むしろ積極的に国民の議論を喚起させ、その結果を踏まえて自説を主張すればいいのにと思ってしまう。

 憲法改正自体は憲法そのものが認める国民の権利である。私は、時代に合った変化を考慮せず、検討そのものを否定する民主党をはじめとする野党が理解できない。政治的主張を優先して、憲法の精神を踏みにじっているように思われるからだ。

 夫婦別姓も同性同士の結婚も、女性の再婚規定も、それを肯定するか反対するかは別にしても、いろいろな「不都合」が発生している以上、検討しなければならない問題だ。検討そのものを否定してはならない。

 私は小心者だから、日常の法律は守る方だ。が、同時に「法律」の条文はたかが紙に書いた文字に過ぎないとも思っている。「憲法」を軽視するつもりはないが、それを明治憲法のごとく、不磨の大典として、時代を超越した絶対不可侵の存在としてありがたがる気持ちもない。

 もし「紙切れに書かれた文字」が人々に不利益を与えることが判明した時点で、法律は変更を「検討」されるべきだ。日本人は、変化をすべて否定しようとした「猿の惑星」のザイアス博士になってはいけない。