【団塊ひとり】北朝鮮の「遺骨ビジネス」・・・・「約束」を守る習慣のない国との危険な取引

北朝鮮との交渉が始まった。良い意味でも悪い意味でも安倍政権には大きな転機になるだろう。上手く行けば安倍政権の政権基盤は盤石になるだろうが、失敗すれば支持率は急落し政権を失うだろう。

 順調良く支持率を伸ばしてきた安倍政権が最近、その支持率が落ちている。その理由を自民党萩生田光一総裁特別補佐は記者団に、集団的自衛権について「ネガティブな報道をされたのが影響した」と語った(読売新聞報道)が、それだけではない。

 まずせっかく「河野談話」の検証を行いながら、「河野談話を否定せず、継承」という説明に終わったことに対する失望がある。従前通り河野談話を「継承する」のなら、何のための「検証」だったのか意味が分からない。「検証」は韓国の反発を生んだだけで、以前より事態は悪化してしまった。検証効果によって、「河野談話」が事実ではなく、政治的産物だったことが明らかになったが、今のままではそれは世界に伝わらない。日本は今まで通り「犯罪国家」の汚名を着せられたままだ。東京都議会のお粗末な「セクハラやじ」があれほど世界に広まったのも、日本=性犯罪大国という人種差別に近い偏見が存在しているからだ。「河野談話」見直しを阻止しようとする勢力が、必要以上に世界に宣伝したとの見方も可能だ。もっともその原因を作ったのは日本人自身だから、悪意のある攻撃にも有効な反論をすることも出来ない。

 「河野談話」に対する「政治性」を目に見える形で証明し世界に理解してもらわない限り、日本人に対する評価は変わらないし、政権支持率の低下は避けられない。政権支持率の低下は「検証」に対する納得した説明が行われていないことに対する国民の批判だ。

 続いて集団的自衛権以上に政権の命運を決めるものに、拉致被害者の奪還問題がある。「拉致」は国家の主権を侵害する重大な犯罪であるのに、一部のマスコミは拉致被害者の返還を「人権問題」にすり替えてしまっている。そして政府もそれに対して鋭い批判をしていない。明かな政治的な失点だ。

 そして何よりも国民が危惧しているのは北朝鮮の姿勢だ。日本政府が交渉の相手にしているのは「約束」はするが「約束を守らない」という習慣を持つ民族だ。実際に今まで何度も煮え湯を飲まされている。また同じ結果になるのではないかという心配に政府は答えていない。

 結果が出ていないのにすでに制裁の一部を解除したことに対して、3日の「時事通信」は制裁解除は国民への背信として次のような批判記事を載せている。

  北朝鮮への制裁措置を一部解除するとの政府決定を受け、民間団体「特定失踪者問題調査会」の 荒木和博代表は3日、東京都内で記者会見し、「北朝鮮は何度も約束を破ってきた。被害者帰国の 結果は出ておらず、制裁解除は極めて遺憾だ」と批判した。
  荒木代表は、菅義偉官房長官が同日の会見で生存者リストの存在を否定したことについて、「リ ストがないなら、特別調査委員会の設置だけで制裁解除したことになる。国民への背信だ」と指摘 した。
  調査委メンバーに金正恩第1書記直轄で秘密警察に当たる「国家安全保衛部」の幹部らが入っ たことについては、「何者か分からないし、今後粛正がないとも限らない」と言及。「何度も約束を 破ってきた国だ。出てくる話が全てうそでもおかしくない」と警戒感を示した。
  また、政府が2002年に拉致被害者家族に情報を公開せず混乱を招いた問題を挙げ、「政府は都 合の悪い情報を隠さず、合意文書を原文のまま国民に提示すべきだ」と注文した。(時事通信) 

 更に懸念するのは今回の再調査の対象が拉致被害者だけではなく、特定失踪者・残留日本人・日本人妻、更に北朝鮮でなくなったとされる「日本人の遺骨」返還まで含まれていることだ。

 日本人妻は自らの意志で朝鮮人と結婚し、北朝鮮を「天国」と信じて日本を捨て北朝鮮を選択し、国籍も朝鮮人になっている女性たちだ。自らの意志とは無関係に強制的に北朝鮮に「拉致」された拉致被害者と同じ土俵で判断することは出来ない。彼等に「補償」など必要ない。

 また「残留日本人」も、もちろん生きる為に日本人であることを隠して生きてきた人もいるかも知れない。しかし、自らの意志で北朝鮮にとどまっている人たちや北朝鮮に渡った人たちもいるはずだ。彼等はいつでも工作員になり得る危険な存在であるかも知れないので、これまた「拉致被害者」と同列に扱うことは出来ない。

 そして何より危険なのは北朝鮮が「遺骨ビジネス」を始めたことである。そして自民党政権がそれに乗って多額の金銭を北朝鮮に渡すことだ。その可能性は高い。

 小泉政権時代に何人かの拉致被害者が日本に戻ってきた。まともな「日本人」なら、それを北朝鮮の「人道的配慮」と思う者はいないはずだ。そして誰もが裏で多額の金銭(国民の血税)が流れていたと信じているはずだ。

 今回はさすがに露骨な形での金銭的授受は困難だろう。そこで人道的という名目の下で合法的に「身代金」を支払えるようにしたシステムが「遺骨ビジネス」だ。すでにアメリカは朝鮮戦争時におけるアメリカ兵の遺体を一体200万円以上の金を支払って取り戻している。北朝鮮がそのうま味を忘れるはずがない。上手く行けば戦後補償とは別に数百億円の金が転がり込む。だが、「遺骨」が日本人のものである保証などどこにもないのだ。

 私が心配するのは「遺骨ビジネス」で支払った金が、日本に対する戦術ミサイルへと変貌することだけではない。前回、死亡と断定した報告書を提出したものの、日本側のDNA検査で見破られてしまった経験を持つ北朝鮮が、今度は日本に返しては都合の悪い(すなわち秘密を知りすぎた)拉致被害者を殺害し、あるいは殺害せぬまでも身体の一部を切断して「遺骨」として提出する危険が高まっていることだ。そうすれば北は「死亡説」を訂正する必要が無くなってしまう。そしてその時点で「拉致問題」は全ては闇に葬られてしまう。

 その危険性を政府は想定しているのだろうか。今はあまりにも北朝鮮の甘言に乗っているように見える。もし一人でも死亡の報告があれば、それは自民党政府だけではなく北朝鮮に対しても致命的なダメージになることを両国政府は理解出来ているのだろうか。

【団塊ひとり】 「浅田真央」選手 と「ザックジャパン」

 ザックジャパンが「不調」である。Wカップではいままでの「進撃」が嘘のように沈んでいる。まだ、「可能性」は残っているものの、すでに選手を責めるだけではなく、監督の采配を問題視する論調が現れている。もはや戦犯捜しが始まっているのだ。もし「ザックジャパン」がこのまま「期待」を裏切る「惨めな敗北」を喫すれば、「戦犯捜し」のバッシングがわき起こるだろう。

 が、冷静に考えれば昨年優勝のスペインやサッカー発祥の国イングランドも予選リーグを突破できないのがWカップだ。あと1試合残している日本が予選を突破出来なくても、それはFIFAランキングを考えれば、妥当な結果と理解することも可能だ。でも世論はそうはならないだろう。

 一つは実力以上に「ザックジャパン」を持ち上げたマスコミにも責任がある。さすがに「優勝」とまでは行かなくても、やれ「ベスト8、いやベスト4も狙える」とあおり立てたのはマスコミだ。たぶん発行部数や視聴率を計算した作戦なのだろう。それは興行的には悪いことではないかも知れないが、「真実」を見ない過剰な報道である可能性が高い。

 確かに今までの試合を振り返ると今回の「ザックジャパン」はまるで別人のように精彩がない。初戦は自慢のパスワークがほとんど機能しなかった。肝心の所でパスカットされる場面が多く見られた。最初に1得点を入れたことで守りに入ったという反省もあるようだが、予想以上に「ザックジャパン」の戦術が研究されていたようだ。それはコートジボワールの代表監督のサブリ・ラムシ氏(Sabri Lamouchi)がかつてインテル・ミラノザッケローニ監督の元でプレーしていたことと無関係ではなかろう。

 もし相手に戦術を読まれていたとすれば、それに対応することが必要だ。日本が、今までのやり方が出来なかったと反省するのも重要だが、相手に手の内を読まれて今までのやり方を封印されたと気付く事も重要ではなかろうか。が、それが実行されたとはとても言えない。選手の「敗戦の弁」を聞いていると、精神論・根性論が多いことが気になる。これでは同じ事が繰り返される。

 初戦と較べるとギリシャ戦では圧倒的に日本がボールを「支配」していた。が、それも錯覚で実際はボールを上手く「キープ」させられていた。ザックジャパンはボールの「支配率」こそ高かったが、それが自己目的化しているようで、戦術的には無意味だった。あまりにも変化やスピードのないパス回しだったので、ギリシャは安心して見ていることが出来た。これでは選手は疲れないので、ギリシャの堅守を崩せない。日本に欠けていたのは、膠着した状況を打ち破る想定外のアイディアだろう。それが全く欠如していて、空中戦というもっとも日本に不利な戦いを仕掛けては失敗した。単なる精神論では解決できない問題だ。単純な戦法は見ているものを不愉快にさせる。

 さきほどイランとアルゼンチンの試合を見終えたばかりだが、実に面白かった。延長時間のわずか数分でメッシに得点されイランは敗退したが、格上の相手に動じず、果敢に「挑戦」するイランの健闘には感動させられた。今の「ザックジャパン」に感じられないものがあった。

 「なでしこジャパン」は男子より先にWカップで優勝している。男子のサッカーと女子のサッカーを同列に論じることが果たして正しいか否か私には分からない。が、「快挙」であることは間違いない。

 稚拙なことを述べるようだが、女子の「なでしこジャパン」と較べてなぜ男子は監督が代わるたびに「トルシエジャパン」「岡田ジャパン」「ジーコジャパン」と名称が変化するのだろう。「サムライジャパン」という呼称が野球に先取りされたことはあるかも知れないが、今のままでは、まるでカメレオン軍団で自分たちの強い意志、独自性、個性というものが感じられない。それがなんとも歯がゆい。
何よりも「日本」のチームとしての連続した一体感を感じにくい。

 浅田真央選手のような実力者もオリンピックの魔物に飲み込まれて、自分の実力を発揮できないことがある。フリーでは立ち直ったがメダルを獲得することは出来なかった。が、彼女を悪くいうものはいない。むしろ浅田選手の生き方に共感するコメントが多く寄せられた。「敗者」が常にバッシングの対象になるわけではないのだ。しかし、「敗者」としての「ザックジャパン」はそうはならないだろう。なぜ?と問いかけてみることも「ザックジャパン」には必要であろう。

いずれにしろ残り1試合に「奇跡」を期待するしかないだろう。最後まであきらめるな「ザックジャパン

 

【団塊ひとり】 白土三平「カムイ伝」の投げかけるもの

 京都で線路に寝そべったりしている写真を投稿して「補導」された大学生が出た。それをまた報道の形を借りたTVのバラエティ番組が取り上げる。あれほど世間で非難されたのに、また同じような行為が繰り返される。この手の「アホな行為」がなくならないのは、TVと視聴者との奇妙な連帯意識が原因だ。視聴率を追いかけるTV局の営業方針と個人の顕示欲の合体という共通の利益がなくならない限り、これからも同じ事は繰り返されるだろう。

 ある社会が存在すれば、そこには統治機構を支える表には現れない何らかの意志が存在する。

 団塊世代の一人である私はかつて白土三平の劇画「カムイ伝」を愛読した。左翼的発想で書かれたと言われる劇画だが、反戦デモには参加せず、民族派とも無縁だったノンポリの私でも引きつける力を持っていた作品だったと思う。

 いまは話題にも上らなくなったが、今から考えると一時期なぜあれほどもてはやされたのだろうか。あの作品が全共闘的な考えを代表していたからだろうか。いやそれだけなら天皇を敬愛し三島を読んでいた私が共感するはずはない。

 「カムイ伝」の時代は服装や髪型や住む地域や言葉遣いを厳しく管理することにより、身分を徹底的に視角化し、差別的な社会構造を完成させた江戸時代である。だが江戸幕府の最初の将軍である家康が、実は彼が抑圧の対象とした「賤民」の出身者であったというのが「カムイ伝」の一つの基本的な思想である。ユダヤ人を差別し、彼等に対する憎しみをドイツ国民に植え付け、その差別意識統治機構の基本に据え虐殺を正当化したナチス。そのナチス党の総統ヒトラーが実はユダヤ人だった、というヒトラーユダヤ人説に似た発想だ。

 支配階級にとって下層農民と「非人」の協力は体制を揺るがす危険な種になりかねない。そこで支配者は自らに向けられる不満をそらすために、両者を対立させる為にあらゆる手段を使う。そして一部の覚醒者以外はその事に気付かない。なんだかいまのアジア情勢に似ている。そして現代ではマスコミがそれに大きく関与する。あるものは政府と、あるものは反政府勢力と、そしてあるものは反日的な外国勢力と共闘して日本を支配しようとする。「カムイ伝」の世界と同じで実に複雑だ。。

 私は白土三平の研究者ではないから、見当違いの認識かも知れないが「カムイ伝」を賞賛するのは左翼に多いと言われる。が、「カムイ伝」には右とか左とかを超えた思想が含まれているような気がする。問題が複雑に絡み合っていて、左翼や右翼という単純な思考では解決できない問題が示されている。
 
 第1に「人民」が時には衆愚的・暴力的に描かれている点だ。劇画の中の「人民」は一揆を起こすほどの激しいエネルギーを持ちながら、単純な情報操作で崩壊する。本当の敵を見失い、自分たちの味方を激情に駆られて殺害してしまう。

 例えば、父が下人で母が非人である生い立ちを持つ百姓の正助。自身の妻も非人であるカムイの姉という設定だ。そして、彼は下人と非人が差別なく暮らせる社会を夢見て努力する。あるときは成功したように見えるが、最後に彼は、彼自身が最も期待を掛けた百姓達の手にかかって殺されてしまう。

 正助の最後は、権力者側の想像も出来ないほどの策謀によって仕組まれたものだ。一揆で逮捕されたものの中で、正助だけが生還する。普通あり得ないことだ。そこで村人達は正助が権力側と何か取引をしたと思い込む。が、正助の舌は切られていて彼には弁解することができない。そして百姓達は自分たちの指導者を、自分たちの手で殺害してしまう。
 
 その他、非人の頭目でありながら武士の手先となり、百姓や非人との間を裂くことにより自分の権力の温存を図ろうとする横目。彼は被差別の出身でありながら、むしろ差別構造の温存を図っている。そこに自分の進むべき道を見つけている。その他武士でありながら非人と同じ思想を持つものが描かれる。当たり前であるが、単純に「○○である」というだけでは割り切れない世界が描かれている

 人間は、それぞれが自分の見たいものだけを「見」、自分の聞きたいことだけを「聞く」存在であるという。「カムイ伝」に対する評価も同じだ。少なくとも私にとっては、武士であるから、非人であるからといった単純な図式では説明できない世界に思える。「カムイ伝」は教条主義的な「はだしのゲン」よりも、はるかに現代的な問を投げかけている作品のように思える。

 原発=完全悪、集団的自衛権軍国主義化というあまりにも単純な図式を、国会議員さえも口にする現代だ。劇画の世界に遠く及ばない思考と言える。

カムイ伝」は発表後数十年経ってもまだ完成しないが、一因が単なるドグマに終わらないその複雑さにあるのかもしれない。その意味で「カムイ伝」はもっと評価されても良いのではないかと思っている。

 【団塊ひとり】 〔1989 05 35〕 ・・・・天安門

 数字に対して抱く感情は万国共通ではないらしい。例えば4という数字。西洋人は気にもしない数字だが、日本では病室や駐車場では避けられる傾向にあるようだ。「死」を連想するからだろう。これくらいなら笑い話ですんでしまう。が、世の中には笑えない数字がいくつもある。

 「18」。野球が好きな人間なら日本ではこれはエースピッチャーの背番号だ。ところがドイツではヒトラーの隠語になるそうだ。アルファベットでAは1番目、Hは8番目に位置するので18はA・H、即ちアドルフ・ヒトラーを暗示するとか。同じように88はH・Hになりハイル・ヒトラーの隠語。知らずにこの数字を付けたTシャツを着ていたら、ネオナチと間違えられるかも知れない。背番号「88」を背負っている巨人の原監督は、身に覚えのない批判を受けないように注意が必要か。

実際に米家庭用品大手プロクター・アンド・ギャンブル社が、通常より5回多い88回分の洗濯ができる増量サービスの宣伝で「88」を全面に出して販売したところ、消費者の指摘で販売中止になったとか。「731」という数字に過敏な中韓を連想させる事件だ。ちなみに18はユダヤ教では18の祝祷(シュモネ・エスレ)とあるようにヒトラーを暗示しない。こうなると複雑すぎて日本人はついて行けない。

 アメリカで絶賛されたトヨタ・GT86も「86」はスラング的には、消すとか殺すとか物騒な意味があるらしい。が、この場合はそれがむしろクールな感じを与えているのかも知れない。ちなみに中華人民共和国に国際電話をかける時の国番号は「86」。こうなると、もはや単なる偶然とは思えない。

 私自身は使用経験はないが、ポケットベルなるものが流行した時期がある。ポケベルは数字を上手く利用して簡単な会話を成立させるツールだ。数字の羅列は関係者以外には一種の暗号のようなものだ。例えば、すぐに会いたい時に相手に「1251」と数字を送る。これは「会いに来い」と読むらしい。受信側は、すぐに行く場合は「1919」(行く行く)、断るときは「184」(いやよ)と返信。もう連絡して欲しくないときは「10618」(テルイヤ)と返すそうだ。ちなみにポケベル言語では、先ほどの「88」はハイルヒトラーではなくて「母」を示す。

 感心したのは数字の羅列で四字熟語まで表現したことだ。「6665666」「〔50 100〕」には感心させられた。ちなみに前者は「6」の間に「5」が挟まっているので「五里霧中」、後者は50と100が同じように〔 〕でひとくくりされているので「五十歩百歩」と読むそうな。

 中学生の時私が通学する学校で、簡単な暗号を使用して交信する遊びがはやったことがある。

 例えば〔135 18 09〕〔242 08 15〕・・・・というように数字を並べて互いに連絡を取り合うのだ。これも互いに共通の約束さえしておけば、実に簡単な暗号だ。それぞれの数字は〔ページ 行 上から数えた位置〕を表す。つまり数字は一種の座標軸の役割を果たしていて、一つの組み合わせがある一つの文字を示している。例えば〔135 18 09〕なら、まず135ページを開き、右から18行目をさがす。そしてその行の上から9番目の文字が、指定された文字になる。この約束に基づけば教科書でも暗号解読器になる。ゲーム機のなかった時代はいろいろな遊びを考えて楽しかった。

 ところで中国のブログでは時々「5月35日」という日付が見られるそうだ。「5月35日」は、すなわち「6月4日」であり、天安門事件の隠語になっているそうだ。日本では「天安門」と書いても「靖国参拝反対」と書いても、それだけで逮捕されることはない。が、中国では身に危険が及ぶそうだ。そこで「5月35日」という日付が天安門事件の隠語になっている。

 今回も天安門事件の映像を流したNHKTVが数分間中断した。が、その数分間の中断は逆に国家が隠蔽作業を実施していることを暴露する結果になっている。映像を中断されたNHKは、むしろ誇りと思うべきだ。

 天安門では本来、自国民を守るべき人民解放軍が、事もあろうに非武装の「人民」に水平射撃を実施し、警棒で殴り戦車で轢き殺し、その死体をブルドーザーを使って地中に埋めた。当局は数百人の死者が出たと公式声明を出したが、実際は数万人に登るという説すらある。闇に葬られているから正確な数がいまだに特定できないのだ。中国版新幹線事故で事故車両ごと遺体を埋めた事実が思い出される。

 ちなみにケストナーの作品「5月35日」は「何が起きてもおかしくない日」の代名詞。自国民を守るべき人民解放軍が人民を弾圧し虐殺する。人民にとってこれほど意外で不幸なことはない。それが常態になっている国は異常だ。中国には再度の「革命」が必要であるかも知れない。

 さて、今回の表題の〔1989 05 35〕という数字は、もちろん1989年5月35日の出来事、即ち1989年6月4日に起こった天安門事件の事だ。

 色々と中韓に非難される日本だが、彼等と全くちがうことがある。それは敗戦後は、中国や南北朝鮮のように他国民だけではなく、自国民を組織的に大量に虐殺しなかったことだ。我が国が外国(非戦闘員)に対して一発も銃弾を撃たなかったことと併せて、これは世界に誇るべき事ではないだろうか。

【団塊ひとり】オバマ大統領の訪日と日本の将来

 オバマ大統領(Barack Hussein Obama II)が去った。予想はしていたが、夜遅く到着し朝早く去って行ったという感じで、何となく慌ただしく過ぎた滞在だった。日米ともTPPに関する納得のいく共同声明を出すことは出来なかった。が、私は尖閣アメリカ大統領の発言を引き出せた日本政府は良くやったと思っている。アメリカとしてはここまで踏み込んだ発言をしたのでTPPで何らかの日本側の見返りを期待しただろうが、阿倍首相は与えなかった。

 今までの政権なら、強く迫られたり粘られると音を上げて軽はずみな政治決着を選択するのだが、今回はそうはしなかった。「河野談話」のように安易なご機嫌取りの妥協もしなかった。今回はっきりしたのは日本政府の予想以上のシタタカさだ。

 報道によるとオバマ大統領と阿倍首相との関係はあまり良好ではないらしい。阿倍首相がアメリカを訪問したときの扱いは、韓国のクネ大統領よりも粗略に扱われていた印象が強かった。日本とアメリカとは上手くいっていないのではないかと心配するほどだった。

 アメリカにおける日本の存在感が次第に薄れてきたと言われる。しかし最近はアメリカの共和党議員の来日が多い。安倍政権が長期政権になるという確信が出たのだろう。日本にとっても中韓に異常密着した感のある民主党(Democratic Party)より、首相を「日本のレーガン」と持ち上げてくれる共和党(Republican Party)の方が日本人には心地よい。ソビエトを「悪の帝国」(evil empire)と決めつけたレーガン(Ronald Wilson Reagan)が生きていたら、きっと中国(China)に対しても「悪の帝国」とよんだだろう。アメリカ政権が共和党に変わるとアジア政策も変化するはずだ。日本政府はオバマ民主党より未来の共和党政権に期待をかける必要がある。

 中国ドラマを見ると悪口を浴びせ続けられて理性を失い自滅する将軍が多く出てくる。が、日本人」は忠臣蔵に見られるように打たれ強く、我慢強い。目的の為には中傷や拷問も我慢できる打たれ強さを日本人は持っている。嫌がらせや中傷を続ける中韓は、日本人の国民性を少し勉強すべきだ。

 中韓は激怒し、アメリカは文句を言うだろうが首相は靖国参拝を続けるべきだ。参拝を政治利用しているのは中韓だ。騒動の好きな両国のマスコミは騒ぎ立てる。しかし扇情的な記事の方が部数を伸ばす現実がある以上マスコミの態度が変わることはあり得ない。靖国参拝軍国主義復活を目指すものではないことを強く打ち出す必要がある。

 韓国で反日を叫べば支持率がアップし、日本で靖国参拝を実行しなければ保守層の支持を失う現実がある以上、新しい選択の道は少ない。ただ私は日本が妥協するとしたら、靖国神社境内に併設されている遊就館を、神社から切り離すくらいのことは考えてもいいのではないかと思っている。

 展示内容に関して解釈が大幅にゆれる遊就館を切り離してもなお中韓靖国にいちゃもんを付けるのなら、日本人は一切妥協すべきではない。このままでは着地点が見いだせないのははっきりしているので、神社と遊就館の分離を契機に新しい道を模索してみるのも必要と思われる。

 例え反対があっても、河野談話の科学的な「検討」は必要だ。靖国参拝軍国主義に繋がらないことの説明も必要だ。もはやこれは一種のチキンゲーム(chicken game)になっている。最初に降りた方が負けだ。車に乗っているのは日本と中韓の首脳。あおり立てる無責任な観客は各国のマスコミだ。

 ゲームが続くかぎりマスコミの売上げは増加して行く。それは戦争をあおり立てて部数を伸ばした戦前に似ている。日本と中韓の対立は、それを報道するマスコミの経営を支えている。前の大戦も一部の軍国主義者だけが暴走したのではない。それを支持しあおり立て世論を戦争に持って行ったマスコミの大罪を忘れてはいけない。「慰安婦報道」など現代の新しい「大本営発表」は今も存在している。嘆かわしいことだ。

【団塊ひとり】なぜ中韓は日本に対していつも「ヒステリー」になるのか

 偏見や固定観念から自由になることは難しい。特に自分に都合のよい偏見から逃れることの出来る人間はほとんどいない。偏見を打ち破るのは「事実」だ。だから常に問いかけよう。イデオロギーやプロバガンダに惑わされるのでは無く、実際に行動している姿から判断すべきだ。何を「述べているか」では無く、「どう行動しているか」を重視することだ。それは完璧ではなかっても、「きれいで不誠実な言葉」に対する小さな防御になるだろう。

 中国も韓国も自分たちは自由と正義を愛する「文明国」と宣伝し、日本人は「殺戮と暴力」を国民性として持つと攻撃する。ではたかが地震や台風が発生しただけで「文明国」にあれほどの暴動・略奪が発生し、「野蛮国」であるはずの日本で暴動・略奪が発生しない理由はなぜか。言葉と行動が矛盾している。

 原爆投下を命令したHarry S. Truman大統領は、公民権運動を支持はしたが、実は白人至上主義を標榜するKKKの団員だった。彼は原爆投下に対し「獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない」と言ったそうだ。では原爆で殺された広島の日本人は「獣」だったのか。もちろんノーだ。だいいち、当時の広島にはアメリカ人の戦争捕虜も収容されていたではないか。もちろん日本以外の国民も多数存在していた。もしかしたらトルーマン大統領にはアメリカ人捕虜も「けもの」に見えたのかも知れない。日本人「けもの」論は、原爆投下によって多数の「非戦闘員」を殺戮する非道な行動を正当化するためのトリックにすぎない。そこには「正義」は存在しない。もしこの論理を正当化すれば、核保有国同士の核戦争で地球が滅亡するときは地球人が互いに相手を「けもの」と認識したことになるのだろう。が、それでは「けもの」に失礼だ。

 Australiaも長く白豪主義(White Australia policy)を国是とし、有色人種を排斥差別していた国だった。彼等が「オーストラリア先住民」(アボリジニ・アボリジナル)に加えた迫害は過酷だった。白人は彼等を人間扱いせず、スポーツハンティングと称して多くのオーストラリア先住民を楽しみながら殺害した。しかも、その時彼等は「10人殺した」ではなく、「10匹やった」と記録した。また無人島に置き去りにして餓死してゆく様を楽しんだりもした。

 戦国末期に日本にやってきたキリスト教の宣教師は本国に送った書簡で「日本人は人間と判断できます」と記している。ということは多くのアジア人を「人間」とは見てこなかったことを意味する。だから「平等・博愛」を説きながら平気で奴隷貿易を実施できたのだ。会田雄次氏も書いているように日本人捕虜の前で平気で裸で歩く「英国婦人」は、羞恥心を知らないのではなく日本人を「人間」と認めていなかったからだ。われわれもイヌの前で自分の裸を恥じることはない。

 中国や韓国の「主張」を見ていくと、「敗戦国日本」が何を偉そうに、と言う考えが心底にあるように思える。それを支えているのは自分たちは「戦勝国」だという「勘違い」ないしは「誤った歴史認識」である。そもそも併合によって「日本人」になった「朝鮮人」は日本と共に連合国とは闘ったが、日本と戦争状態にあったことは一度もない。中国に至っては建国が1949年だから、戦争終結後数年が経っている。だから中韓はこれから日本と戦争でもしない限り永遠に「戦勝国」にはなれない。この当たり前の事実を受け入れることが出来ないので、彼等は日本に対しては常にヒステリー状態にならざるを得ない。彼等の「戦争願望」は一種の「劣等感」の屈折した現れだ。この理不尽な態度を我々は認める事は出来ないが、彼等の惨めさを理解する必要はある。「劣等感」そしてその裏返しの「根拠のない優越感」は時々とんでもない暴発を起こす。実に危険だ。

 我々はもう一度原点に戻って「日本人は世界でどのように評価されているか」ということを見つめ直す時ではなかろうか。南極海での捕鯨「禁止」決定でなぜ日本の論理が受け入れられなかったのか、を手始めに我々自身をもう一度見直すべきだ。その上で主張すべき所はきちんと主張して行くべきだ。正すべき所は妥協せずに、徹底して訂正を要求すべきだ。もう鯨肉は「日本の文化」的な発想では世界を納得させられない時代になっている。世界を説得できる論理、自分を変えて行く勇気、それらが必要な時代になっている。

【団塊ひとり】STAP細胞に対する「信念」があれば小保方さんは孤軍奮闘・徹底抗戦すべきだ。

 「存在」とは何か、と言うことを時々考えることがある。いい年をして実に「青い」ことだが、最近ますます分からなくなってきた。例えば1916年にすでに予想されていたとはいえ、1930年にクライド・トンボーによって発見されるまで「冥王星」は地球人にはその「存在」は知られていなかった。古代人は我々の銀河系と同じような銀河やブラックホールが多数「存在」していること等、想像も出来なかったはずだ。このように、「存在している」にも関わらず「存在していない」と認識されることは珍しくはない。逆に「存在していない」のに「存在している」と誤解・ねつ造されることだってあるはずだ。

 STAP細胞はどちらなのか。「存在している」のか「存在していない」のか。今は「在ったらいいな」という希望と、「あるはずないさ」という冷笑が、どちらも何の確証もなく「存在」している。

 小保方さんは本当にペテン師なのか。理研は責任を小保方さんひとりに転嫁することで、問題を片付けようとしているように見える。マスコミも今までの賛辞を捨てて、バッシングに熱心だ。が、賛辞もバッシングもマスコミ人は論文内容をよく理解して執筆しているわけではない。尻馬に乗っているだけだ。私は、女性ひとりに全責任を押しつけようとしているように見える理研のやり方に何か不公正なものを感じている。

 当の小保方さんは徹底抗戦の構えだ。私は当然と思う。「ねつ造」であれば正直に謝るべきだし、本当に「信念」があれば、何度もチャレンジして自分の仮定の正しさを立証すべきだからだ。理研はよく確かめもせず実験の成果を発表し、今は充分な検討もせず、あっさり否定する。専門家が集まった集団とは、とても思えない。

 これも素人には本当か判断できないが、香港中文大学の李教授がSTAP細胞作製の再現に成功との報道。失礼ながら「香港」というといかにもいかがわしく感じるが、論文共同執筆者であるハーヴァード大学医学大学院のチャールズ・ヴァカンティ教授もSTAP細胞の存在を支持している。

 小保方論文の性急な発表と、否定の間には外部の者には分からない深い謎があるように思われる。小保方さんが克明なノートを提出しなかったことも、未熟さやねつ造の為かも知れないが、もしかしたら「成果」を横取りされることを恐れていたからかも知れない。

 ヒトiPS細胞の場合でも山中教授グループの実験を契機にB薬品が開発に着手し、特許出願を争った「事実」があるという。例え後発でもアイディアと手法を「入手」出来れば、資金力のある会社がそうでない研究者よりも成果を先行させる事は可能だ。その結果、さきにアイディアを持っていた研究者を飛び越えて特許を獲得する可能性も存在する。特に優れた研究は部外者がどのような手段を使っても、自分のものにしたいという誘惑に駆られるものだ。逆に研究者は漏洩を恐れるために、実験段階では第三者には分からない形でまとめておくことだってあるはずだ。ファイル保存時に暗号を使用するのと同じだ。特許権は莫大な金を生む。それが問題を困難にしている。
 
 特許戦争に勝利するために論文発表を何よりも優先する事は充分に考えられる。iPS細胞もすでに多くの外国企業が部分特許を獲得しているが、それらのあるものは京大に無償譲渡され、代わりに京大は特許使用を許諾して、互いの特許紛争を避ける処置を執っているようだ。

 日本人は批判されると先ず自分の意見を撤回する。身をかがめて「嵐」が通り過ぎるのを待とうとする。が、これが世界に通用しないことは「河野談話」で明らかだ。素人の私には事の真偽が分からないからこそ、小保方さんには粘って真実を明らかにして欲しいと思う。

 いまこの文章を書いていると、香港中文大学の李教授がSTAP細胞作製の再現に成功との報道を否定したというニュースが飛び込んだ。ヴァカンティ教授のコメントを否定するものだ。「肯定」はあるいはマスコミの意図的な「誤報」であったかも知れないし、「否定」そのものも疑えば疑える。こうなれば香港中文大学の李教授がSTAP細胞を作製しようとしていたという事実すらも疑わしい。もう何が何だか分からなくなっている。

 「冤罪」問題をみても、「自分自身のアリバイを証明する」ことは非常に困難だ。自分がそこにいたと言うこと、あるいは絶対にいなかったと言うことの証明をどのようにすればいいのか。多くの「冤罪」が生まれる理由だ。STAP細胞の「実存」も混沌としている今、肯定も否定も科学的な「立証」に待つしかないと思う。ともに時間のかかることだ。結論をあせるべきではない。