【団塊ひとり】政府支持率上昇の背景・・ISIL報道と国民の意識

 ISILに対する、政府と野党の間の国会論戦がどうもかみ合わない。例えば共産党の小池氏が、首相のカイロでの演説を批判して、「テロに屈することと慎重に言葉を選ぶことは違う」と追求すると、首相は「テロリストに過度な気配りをする必要は全くない」と反論した。

 さらに首相は「小池氏の質問はまるで、ISIL(イスラム国)を批判してはならないという印象を受ける」と追い打ちをかけて、両者の「討論」は全くかみ合わない。世論の反応は首相を支持していて、その影響か野党の追及は精彩を欠いている。

 政治的な立場や様々な背景を排除して、「切り取られた発言」だけをみると、首相も小池氏も当たり前のことを述べているに過ぎない。しかし両者には、お互いの発言を受け止める姿勢は全く見られない。たぶん両者の「こころ」は互いに不信感で裏打ちされているからだろう。

 首相と共産党との関係は、水と油のようなもので互いに大きな不信感が存在して、歩み寄りは不可能に見える。だから互いの「発言」は「相互発言」に終始して、「対話」に発展することはない。これは日本国にとっては不幸なことだ。

 首相は先月エジプトで「イスラム国と戦う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援を約束する」と表明した。その3日後ISILは「日本政府はイスラム国に対する戦いに2億ドルを支払うという愚かな選択をした」との声明を出し、日本人の人質事件が「表面化」した。

 もし首相が「イスラム国」と名指しせずに、「テロ集団と戦う周辺各国に、総額で・・」と切り出していたらどうだろう。もしかしたらISILはあそこまで強硬な手段をとらなかったかもしれない。が、それはあくまでISILが理性的な存在だと楽観的に考えた場合だ。

 首相は軍事的な支援を表明したわけではなく、人道的な援助を表明したに過ぎない。が、ISILにとって、そんなことは重要な意味を持たない。「女性に教育を」という日本人にとっては当たり前のことを主張したMalala Yousafzai(マララ)さんすらテロリストの殺害対象になる。ISILに対しては「話せばわかる」式の楽観論はむしろ危険だ。

 人質交渉を進めるISILが、すでにヨルダンのパイロットを非人間的な方法で殺害していた事実も明らかになっている。二人の日本人の人質の映像が公開されたとき、実はすでに湯川氏は殺害されていた可能性もある。ISILを信頼することは危険だ。ISILの狡猾な交渉に振り回されてはならない。

 今回のマスコミ報道で私は朝日新聞・TV朝日・TBSの報道を注視している。なぜなら、彼らはいまの日本で最もISILに近い存在だと思うからだ。が、今回は思ったほど、政府の足を引っ張る報道は少ない。かつて、報道内容をオウムに漏らし坂本弁護士一家殺害の原因を作ったTBSのバラエティ番組は、最も注意すべきもの一つだ。が、昼間の番組「昼おび」も、最近はきわめて抑制的である。

 世論調査においても、マスコミによって程度の差はあるけれど、おおむね政府の人質解放に対する対応を国民の多くが支持し、政府支持率も上昇している。あれほど安倍首相に対してネガティブな報道が続いた中での日本国民の選択だ。反日的な政党やマスコミに影響されない、健全な判断力を日本国民が持っていることの証明だ。

【団塊ひとり】ISILとの戦い・・・・21世紀も「戦争の世紀」になるのだろうか?

 テロに対抗する方法として、無力な我々にも出来ることがある。それは少なくとも、テロ集団を「イスラム国」と呼ぶことをやめることだ。言葉は本来の意義から離れて一人歩きすることがある。それを避けるためには、まず呼称を変えることだ。

 そして、マスコミはISILの「大本営発表」を無批判にたれ流すことはやめよう。ISILは、与えられた情報を批判せずに垂れ流す、日本のマスコミの性格をうまく利用して、自分たちの主張を拡散することに成功している。日本人の人質を取れば、日本のマスコミは自分たちの宣伝を世界的にしてくれると悟ったISILは、再び人質を狙う可能性がある。日本人がこれ以上人質になることを避けるためにも、ISILの意向に沿うような報道を慎むべきだ。

 ISILの戦術は実に狡猾だ。後藤氏がヨルダンのパイロットの写真を掲げたとき、すでにパイロットは殺害されていた。いまから思えば、日本人の人質が二人同時の合成映像が流されたときには、湯川さんは殺されていたのだろう。とすれば、後藤氏のメッセージが流されたときも、すでに後藤氏が殺害されていた可能性もある。ISILは対象国がパニックに陥ることを見てほくそ笑んでいるだろう。

 ISILが日本人の人質の写真を公開する以前に、彼らが人質家族とメールの交換をしていたことが明らかになった。それは政府も了解のことだったらしい。安倍首相が、テロリストに妥協しないという強気の発言に終始した背景には、公開できない情報をすでにつかんで、結果がわかっていたからかもしれない。

注意すべきなのは、すでに殺害していながら、あたかも生きているかのように装い自分たちに有利に運ぶように策略を用いるISILの方法である。公式見解とはちがって、いまのISILには交渉をする気持ちも余裕もないようだ。今回の件で、オレンジの服を着せられた映像が公開された時点で、すでに殺害されているか、殺害される可能性が限りなく高いということがわかった。彼らは人質解放ではなく、自分たちの宣伝が世界に広まり、恐怖が拡散することを狙っているようだ。策略に踊らされてはならない。

 ただ、ヨルダンのパイロットを火刑に処したことは、ISILの大きな失敗になる可能性がある。彼らの行為は、十字軍の将軍さえ畏敬せざるを得なかった、イスラムの英雄サラディンの寛容な行為とはあまりにも隔たったものだ。同じムスリムに対するISILの蛮行は、かつて十字軍がイスラムに対して行った歴史的蛮行を思い出させ、多くのイスラム教徒の嫌悪と反感を招くだろう。ISILはやがて孤立してゆき、最後には壊滅してしまうだろう。

 有志連合はISILを壊滅させるために、徹底した軍事作戦を強行するだろう。ISILが相手にする国の一つアメリカは、報復のために原爆を日本に投下した国だ。その国を相手の戦争だ。テロリストに支配されている地域で、また多くの無辜の人命が失われてゆくと考えたら憂鬱になる。が、テロリストに妥協は禁物だ。話し合いや妥協で解決できると思う甘い考えは禁物だ。

 暗い話題の中で唯一救われることがある。それは現在の政権が鳩山由紀夫菅直人が率いる民主党政権でなかったことだ。もしルーピーハトヤマが首相だったら、日本はどうなっていただろうか。もしかしたら大量の税金をつぎ込んで、人質は解放されたかもしれない。が、日本国の信用は地に落ち、テロリストは日本の金でさらなるテロを実行するだろう。

 フランスやトルコの人質は身代金を払い解放されたではないか、しかし彼らは非難されていないではないかという意見がある。しかしフランスやトルコの場合は、テロリストは表だって身代金要求をしていないし、フランスもトルコも身代金支払いを否定している。

 今回はテロリストがネットを使用して、公然と身代金を要求した。もし人質が解放されたなら、世界は身代金をテロリストに渡したと日本を非難するだろう。身代金を公然と要求する時点で、テロリストにはまじめに交渉する姿勢を放棄していたはずだ。身代金を公然と要求したことは、ちょうど競争相手の栄転を邪魔するために、あえて偽の情報を流すようなものだ。彼らの目的は身代金獲得にはない。

 安倍首相は、ナチスに対してイギリスのアーサー・ネヴィル・チェンバレン( Arthur Neville Chamberlain)が宥和政策を実行したような過ちをしないことだ。そしてISILとの戦いは新しい戦争だと国民すべてが意識することだ。日本だけではなく、世界はテロリストとの21世紀型の新しい戦争に組み込まれている。ナチスとの戦いに勝つためにはヒトラーの殺害と、ドイツ国土の崩壊が必要だったように、この戦いも憂鬱で苦しいものになろう。そして、テロリストと有志連合との戦闘で多くの民衆が殺されてゆく。戦争の世紀は21世紀も続くようだ。実に悲しい。

【団塊ひとり】 後藤氏の遺志を受け継ぐために

 よく「あんないい人がどうして」殺されるのか、と殺人者の動機を何かに求めようとする人がいるが、ただ「人を殺してみたかった」という理由だけで殺人を犯す人間もいる。彼らの行動を、理屈をいろいろとつけて説明することは何の意味も持たない。また、ある社会で常識となっていることが、すべてに通用するわけではない。自分たちだけで通用する理屈や倫理的な基準は、他では役に立たないことも多い。「女子にも教育を」という当たり前のことを訴えたマララさんは、ただそれだけで殺害の対象にされた。

 もしISILのようなテロ集団が、自分たちの力だけで数億の人間に自分たちの主張を伝えようとすれば、莫大な費用と努力がいる。が、彼らの提供するビデオをNHKなどの公共機関が、無批判に繰り返し垂れ流せば、いとも簡単に彼らの目的は達成される。

 「事実」を伝えることはマスコミの使命である。が、マスコミが伝えることが「真実」である保証はない。テロ集団は日本のマスコミが戦前、大本営発表を無批判に垂れ流した事実を知っている。簡単に思考停止になる体質が今も残存していることを見抜いている。日本のマスコミのそのような性質を見事に利用して、自分たちの宣伝に成功しているのが「イスラム国」というテロ集団だ。残念なことに、日本のTVは何度も繰り返し、「イスラム国」(ISIL)の作成したビデオを垂れ流している。残念ながら、日本のマスコミ大手は自分たちが独自に取材した情報を持ってはいない。後藤さんのようなフリージャーナリストの活躍による部分が多い。が、それは同時に記者自身の危険を伴う。従ってある国ではISILを取材したフリージャーナリストから「作品」を購入することを拒否することによって、危険を回避しようとする。そのことでフリージャーナリストが、大手ジャーナリズムの捨て駒になることを防ぐのだ。

 手元に独自取材した情報がない大手マスコミは、結果としてISILの宣伝を放映するしか番組を作る材料がない。しかし、一方的な「宣伝」のみを無批判に垂れ流すならば、それは「報道」ではなく、テロリストのプロバガンダの拡散に手を貸していることになる。その反省が日本のマスコミにあるだろうか。こうしてISILの大本営発表は止めどもなく拡散してゆく。ISILは、日本のマスコミの性格をうまく利用して自分たちの主張を拡散することに成功している。

 大手マスコミだけではない。K・Lという「日本」の女性精神病医は、日本はイスラム国と仲良くやるべきだという。無実の人間を殺し、女性を奴隷にし、自爆テロの手段にする集団とどうして日本は仲良くせねばならないのか。K・Lには精神鑑定が必要だろう。

 確かに安倍首相は「イスラム国」を挑発するような発言をし、彼らをいらだたせた。。だからといって後藤氏の殺害が安倍首相の発言にあるという、一部政治家・マスコミ・コメンテーター・活動家の発言はテロ集団を利するもの以外のなにものでもない。安倍首相の「発言」の当否を問うことは政治の問題であり、いまの状況下では問題にすべきことではない。

 弱いもの、虐げられたものに対する後藤氏のまなざしを否定するものは、西欧社会では少ないだろう。が、「女性に教育を」と主張する後藤さんの訴えは、マララさん狙撃に見られるようにテロリストの怒りを買うものだった。幼女との性交渉を幼児ポルノとして禁じる西欧社会の主張は、イスラム圏では9歳の幼女と性交渉を持ったムハンマドに対する冒涜・侮蔑ととられかねない。同様に、日本政府の人道支援キリスト教徒である後藤さんの難民に寄り添う姿勢はテロリストにとっては「敵」への援助、「敵対行為」とうつることも真実だ。基礎となる文化があまりにも異なるのだ。

 殺害された後藤さんは、今後どのように「利用」されてゆくのか。集団的自衛権憲法改正原発反対の勢力は政府批判に利用するだろう。が、それはテロリストの思うつぼだ。逆に政府は独自の諜報機関の設立、国際水準に準じた自衛隊の行動拡大を主張してゆくだろう。戦争状態にある危険な環境から自国民を救済するためには、訓練を積んだ自衛隊の派遣が最も有効である。発射されたミサイルに対処する技術や装備を持たない民間機は、簡単に餌食となり自国民の救済は不可能になる。が、自国民救出のために自衛隊を送り込んでも、テロ集団はそれを日本軍の参戦と理解する危険性がある。そして反日的な一部マスコミや政治家は、日本が憲法9条を破って「派兵した」と声高に叫び、テロ集団にエールを送るだろう。

 いずれをとっても後藤さんは様々な団体から利用されてゆくだろう。格差を批判するマスコミが同じ人質だった湯川氏についてほとんど触れないのは、たぶん利用価値がないからだろう。正義の味方・平等を標榜するマスコミの本質が垣間見えて興味深い。

 いろいろな批判があっても安倍首相の決断は世界の民主国家の大きな支持を受けた。また後藤氏の行動は多くのイスラム諸国の人々の共感を受けた。戦後の八方美人的な態度ではつかみきれない「信頼」を手に入れることが出来た。

 今朝のTV朝日の「そもそも総研」は「安全保証の要諦は敵を作らないこと」と結論を出した。が、「敵」を作らないことは「味方」も出来ないことだ。第一、全く「敵」がいない国など、地球上のどこにも存在しない。

 ISILを「敵」に回さないように行動することは、結局彼らの残虐行為を「黙認」することである。これがどれほど不正義であるかTV朝日は理解できないようだ。教室の「いじめ」は多数の「傍観者」によって補強されてゆく。教室の構成員は、自分が相手に「敵」と意識され、新しい「いじめ」の対象にならないように、見て見ぬふりをする。TV朝日が主張することは「いじめ」をみても「見て見ぬふりをしろ」、相手が自分を「いじめ」の対象にしないように気をつけて発言しろ、と述べていることに等しい。私はとうてい納得することが出来ない。

 日本は標的になることを恐れるあまり、テロリストの行動を黙認したり、まして同調したりしてはならない。民主主義になじめない勢力からは、これからも強い批判を受けるだろうが、それを恐れてはならない。

 今後、日本のマスコミ報道はどうあるべきか。それはISIL の宣伝映像を垂れ流すのではなく、まして彼らの行動を「黙認」するのではなく、「自己責任」をきちんと述べている後藤氏本人のメッセージを受け、その上で後藤氏のなした業績を報道することだ。これこそ本来流すべき情報であり、後藤氏の遺志を受け継ぐことになるのではないだろうか。

【団塊ひとり】ヨルダン軍パイロットのムアズ・カサースベ氏(26)の殺害

 今朝のニュースは「ヨルダン人パイロット」の殺害で始まった。ヨルダンのパイロットは、すでに殺害されているのではないかと「予想」されていたが、それが証明されてしまった。しかも生きながら焼き殺されるというむごたらしい方法で。イスラムの通念では「火葬」は魂の復活を阻止するだけではなく、死者に地獄の苦しみを与える残酷な仕打ちであり、死者および家族に対する最大の侮辱行為でもある。ISILは幾層もの形で、死者をむち打った。

 生きながら人間を焼き殺すことは残忍な「処刑」方法だ。だが、テロリスト集団の残虐性を西欧社会が強調することには違和感がある。なぜなら生きながら人間を焼く「火刑」は、ジャンヌ・ダルクの例を見るまでもなく、西欧キリスト教社会のお家芸だったからだ。

 今回の長時間の演出ビデオは、まずヨルダン軍による空爆とその結果の惨状を描いている。今回の「火刑」は、空爆で焼き殺された被害者の意思をくんだ正当な復讐なのだ、という姿勢を強く打ち出している。が、その結果、激しい報復感情に裏付けられた空爆は激しさをまして行くだろう。「目には目を」の報復はさらに激しい報復を生み、戦闘はますます激しくなるだろう。結局は、武力による解決しか方法がなくなった。ちょうどナチスユダヤ人殺害を終わらせるために、ドイツを徹底的に破壊せねばならなかったように。そして連合軍がその大量殺戮を「正当化」出来たのも、ナチスの非人道的な蛮行だった。これから、どれほど多くの無辜の民が巻き添えで死んでゆくかと思うと憂鬱になる。

 ヨルダン政府は予告通り死刑囚の処刑を実施した。それを口実にISILのようなテロ集団は、さらにテロ活動を激化させるだろう。

 テロ集団は自らの行為を「聖戦」と信じ、殉教すれば天国にゆけると信じている。だとすればテロリストの死体をすべて火葬にしたらどうだろう。死ねば「天国」に行けると信じているテロリストも、火葬によってそれが実現出来ないとすればそれは一つの抑制効果を生むのではないか。

 「火葬」の理由はいくらでも見つかる。死体の腐敗による伝染病の蔓延を防ぐため、というのももっともらしい理由になるだろう。生きている人間を焼き殺すのではない。単に葬礼の方法を変えるだけだ。仏教徒である日本などの社会では、死者を「火葬」にすることに対するアレルギーはない。

 自分の死体が、火葬によって処理され、その結果自己の死が「聖なる殉教」にならないとすれば、テロリストにわずかな逡巡が生まれる可能性がある。

 死者を火葬にすることに普通のイスラム社会が嫌悪感を抱かないために、ヨルダン政府は、ISIL に属するテロリストはイスラム教から逸脱した「背教者」と主張する必要があろう。背教者や異教徒であれば、イスラム教の教義に則った扱いは必要ではなくなる。

 仲間の「火葬」を避けるためには、テロ集団は死体を取り返さねば集団の規律を維持することが困難になる。よくない例えだが、その時点で「テロリストの死体」は、テロ集団をおびき寄せる「撒き餌」になる。後は待ち構えておればいいだけだ。

 もし仲間の遺体を取り返す行動をしなければ、テロ集団に亀裂が生じる。「死体」を利用するというおぞましい方法は好ましくはないが、ヨルダンやアメリカはテロとの戦いではあらゆる手段を考え
ているのではなかろうか。

 ISILが、報復感情に押し切られてヨルダンのパイロットを焼き殺したことは、数倍の報復の嵐を受けることになろう。いままで、多少なりとも同情を示していた人々の気持ちさえ離れてしまうだろう。ISILは、自分たちが戦っている相手が、強い報復感情に基づいて、平気で日本に原爆を落としたアメリカであることを忘れているのではないか。

 テロリストとの間に挟まれて逃げることも出来ず、報復の空爆で死んでゆかねばならない「庶民」を想像すると、なんともやりきれない。(続く)

【団塊ひとり】ISIL(イスラム国)の目的と日本人の心構え

 国会の「論戦」に注意しているが、今のところ「イスラム国」事件に対して野党は政府追及に対して、予想したほど強硬ではない。おそらく日本政府の人道支援を批判することが難しいからだろう。

 今の時点では日本のマスコミ報道には2種類あるようだ。一つは日本政府の対応を非難するテロ集団ISIS (ISIL)の映像メッセージを垂れ流すメディア群。他は「自己責任」をきちんと述べている後藤氏本人のメッセージ映像や、後藤氏の優れた業績を報道するメディア。後藤氏の決意を正しく報道するには、後者こそ日本のメディアが本来流すべき情報のはずだ。

 気になるのは、安倍首相の「過激発言」がISILに人質殺害を決定させた式の発言や報道だ。確かに安倍首相は中東で、そしてイスラエルで「イスラム国」を挑発するような発言をし、彼らをいらだたせた。だからといって後藤氏の殺害が安倍首相の発言にあるという、一部政治家・マスコミ・コメンテーター・活動家の発言はテロ集団を利するもの以外のなにものでもない。
 
 主要マスコミはあまり報道しないが、驚くことに「実の母親」までが、集団的自衛権憲法9条、果ては原発まで持ち出して安倍首相を批判しようとしたが、ピント外れであることは言うまでもない。

 10年ほど前に、「アフガン零年」というDVDを見た。女性蔑視のタリバン政権の中で、生きるために少年に変装し働く少女の物語だ。アフガニスタン復興後のはじめての映画で、日本を始め数カ国が共同制作し、カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール賞を受賞した映画だ。

 正直救いようのない結末だった。女性であることが発覚した少女は、生きるためにタリバンの聖職者に身を任すのである。

 昨年17歳という若さでノーベル平和賞を受賞したMalala Yousafzai(マララ・ユスフザイ)さんは、「女性への教育の必要性や平和を訴える活動」をし、一部保守的なイスラム社会の恨みを買った。が、彼女は同時にイスラム社会に対する無人機を使ったアメリカのテロ掃討作戦をやめるよう、オバマ大統領に求めている。にも関わらずイスラム過激派は彼女を襲撃した。イスラム教徒である彼女は、イスラム社会に戦争を仕掛けたわけではない。ただ、女子にも正当な教育をと主張したに過ぎないのに。
マララさんは、別に日本の集団的自衛権に賛同したり、憲法9条に反対したわけではない。にもかかわらず彼女は襲撃された。テロリストには集団的自衛権も、ましてや憲法9条など何の関係もないのだ。

 殺害された後藤健二氏の著作に、『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』汐文社(2009年)がある。その中で主張されていることは、マララさんの主張と同じだ。女性が男性と同じく正当な教育を受ける。日本人にとっては当たり前のことだ。が、過激派にとってそれは「イスラム教」の教えに背く冒涜行為にうつるのだろう。まして後藤さんは敬虔なキリスト教徒だ。イスラムの過激派にとっては「十字軍」の一員であり、侵略者の手先とうつったのかもしれない。

 確かに安倍首相は中東で、そしてイスラエルで「イスラム国」を挑発するような発言をし、彼らをいらだたせた。そのことの当否を判断する必要はあるかもしれない。が、それは「いま」ではない。「いま」首相の判断を追求し、国論を分裂させたら、それこそISILの思うつぼである。何よりも後藤氏はそれを望んではいないだろう。(続く)

「国」を僭称するISILの蛮行と報道のあり方

 昨年の7月以来、久しぶりにブログを書く。別に病気であったわけではなく、断筆宣言したわけでもなく、ただ書く気にならなかっただけだ。毎日何らかのコメントを書かねばならないプロではなく、オピニオンリーダーとして期待されているわけではないという、気軽な気持ちもあって筆を執らないことに何の感慨もなかった。そして予想通り世の中は私に関係なく、どんどん変化していった。

 ブログを休んでいた間、朝日新聞が「慰安婦報道」の「誤報」を認めた。が、あれは誤報というような生やさしいものではない。社民党や韓国政府とタイアップした「政治工作」のようなものだと思った。様々な報道がなされたが、朝日新聞はまともに謝らず、他社の論戦も思っていたほどには深まらなかった。朝日新聞だけではなく多くのマスコミも共犯関係にあったからだ。また与党自民党も、深く追求してゆけば、自分自身無傷ではすまされないからだ。


 最近は「イスラム国」というテロ集団の話題が賑やかだ。最初の一人が「人質」になったとき、銃を持って戦闘服スタイルの「男」が「はるな」と呼ばれていることに、ものすごい違和感を感じていた。そして、このような姿でゲリラ地域に入って人質になることは、違法なバックカントリースキーの遭難のようなものだとも思った。もし無事に帰ってきても、きっと報道陣による激しいバッシングに合うだろうな、という程度に考えていた。いわゆる「自己責任」で片付けられるだろうという程度に考えていた。全く落ち度のない横田めぐみさんの拉致のケースとは明らかに異なっているからだ。

 続いて後藤というジャーナリストが人質になった。この人は著作も多く、池上彰氏などが救出を願うほどの「大物」だった。「はるな」さんが人質になったときは、無視に近かったマスコミが、にわかに情熱を持って報道し始めた。多くは後藤さんの功績を称え、解放を求めるものであった。
 

 やがて「突然」日本人の人質二人と処刑人の写真とメッセージがユーチューブに流れ、瞬く間に日本中の話題を独占した。その時点でも私は二人が殺害されるとは思ってはいなかった。が、結果はそうではなかった。まず「はるな」さんが殺害された。そして日本政府に対する脅迫の度合いが強まっていった。やがて要求は身代金から死刑囚解放へと変化した。日本政府はヨルダンなどと連絡を取り解放に努力したが、結局最後の人質も殺害されてしまった。


 国を僭称するテロリスト集団と、それに対する報道のあり方などについて、次回からしばらく考えていきたいと思う。

【団塊ひとり】なぜ子供は親を選択できないのか DNAと法律と

 昨日のNHK朝ドラ「花子とアン」では白蓮の失踪事件の発端が描かれていた。ドラマで白蓮の相手宮本龍一として登場する人物のモデルは宮崎龍介と言われる。龍介の父親は孫文を初めとする中国の革命家達を支援した宮崎滔天だ。滔天の銅像は南京で孫文銅像と並べて建てられている。また白蓮夫妻も孫文誕生九十年の祝典で中国に招待され、毛沢東周恩来と臨席している。こう考えると「朝ドラ」もとてつもない大きな世界を背景に据えているのだ。

 白蓮と「宮本龍一」との関係は、現在で言えば「不倫」の一言でかたづけられてしまうだろう。が、姦通罪が存在した大正時代では、不倫は旧刑法353条に規定された「立派な」刑事犯罪である。露見すれば男性も女性も牢獄につながれる可能性がある。そして両者は犯罪者として社会的な制裁を受け全てを失う危険性がある。そういう背景での二人の選択と行動だ。

 漱石の「それから」が胸を打つのは、主人公の長井代助が自分の全てを捨てる事を覚悟して、友人の平岡常次郎の妻である三千代と生きようと決意する点である。家から勘当され社会的地位を失う事を代償にしても、一人の女性と共に「愛」に生きようとする決意の強さが、心を打つのだ。だから小説の背景から「姦通罪」という軛を取り去り「平成的思考」でのみ理解しようとすれば、「それから」という表題の重みはずいぶん薄められてしまうであろう。

 先日最高裁が三つの「複雑」な裁判に一つの結論を出した。

 三つの訴訟に共通していることは、婚姻中にある「妻」が、夫以外の男性と性的交渉を持ち、その結果生まれた子供の「法律上の父子関係」を争っている点だ。下品な言葉で言えば「不倫」の結果誕生した子供の「所属」を争ったのだ。

 「報道によると、北海道と関西の訴訟では、いずれも母が子の代理人となって、夫との親子関係がないことを求めていた。子どもが生まれた当時、母と夫は婚姻関係にあったが、子どものDNA鑑定を行った結果、別の男性が父親であるとの結果が出た。1審、2審では、父子関係を取り消した。

 一方、四国の訴訟については、元夫側から父子関係の取り消しを求めたものだった。妻との婚姻中(現在は離婚)に生まれた5人の子どものうち、2人についてDNA鑑定を行った結果、別の男性の子どもであるとの調査結果が出た。1、2審ともに父子関係の取り消しを認めなかった。」(弁護士ドットコム)

 DNA型鑑定により法的な父子関係が覆るかどうかが争われた訴訟で、最高裁は17日、民法の規定に基づく「法律上の父」が血縁よりも優先するという判断を示した。民法を重視するこれまでの姿勢を貫いた形だが、家族の実態と民法との乖離は広がっており、子どもが不利益を被らないよう、対策を求める声が強まっている。(読売新聞)

 最高裁は北海道と関西の訴訟については「妻が婚姻期間中に懐胎した子は、夫の子と推定する」という民法772条に基づいて下級審の裁定を差し戻し、四国の訴訟については「嫡出否認の訴えは、夫が子の出生を知った時から1年以内に提起しなければならない」という民法777条の規定を適用して下級審の判決を支持した。要するに最高裁はDNA鑑定の結果よりも法律の条文に従ったのである。

 が、この判断はおそらく原告にとって受け入れがたいものではなかろうか。なぜなら、北海道と関西のケースでは「元妻」は現在の「夫」、すなわち生物学上の「父」を子供にとっての「法律上の父親」と認定出来ないことであり、四国のケースでは「妻」に去られた「夫」は血のつながりのない「他人の子供」を「自分の子供」として育てなければならないからだ。

 私は法律の専門家ではないので、法律的解釈や判断は感想の領域を出ることは出来ない。そして感想で言えば、どちらも子供にとって幸福であると断定は出来ないのではないかという事だけだ。

 DNA鑑定による「本当の親子関係」を優先するか、血縁よりも「育ての親の愛情」を優先するか。問題はそれほど単純ではない。法律が考えるほど人間は単純で割り切れるものではない。まして法律が制定されたときの社会状況と現在とでは、想像以上の変化が存在するという現実をどれだけ考慮するかという問題がある。

 そして法律に決定的に欠けているのは子供からの視点だ。親子関係の決定に子供の感情・選択が入っていないことが問題だ。

 例え生物学上の親子でなくても、実の親子以上に深い「親子」関係が成立する場合もあるはずだ。人間の親子関係は「親」の都合だけで決まるものではない。「子供」の視点も無視できないのではないか。生物学的には、子供は常に「I was born.」であり常に受け身である。が社会的な存在としての「こども」は、もう少し自由であっても良いのではないか。子供にも親を選択する権利を与えても良いのではないか。

 「真剣」に愛し合っている男女は、例えそれが世間で言う「不倫」と呼ばれるものであっても、気にはしないだろう。むしろ妻や夫という法律的な立場を求めず、ただひたすら愛情を求め合うのではないか。それで満足なはずだ。だが子供はそうはいかない。親の「無責任」が子の幸福を奪って良いはずがない。

 血のつながりか、育ての親の愛情か。これがもっとも痛切に現れるのが、出生時の「赤子取り違え」だろう。病院の無責任な処置の結果取り違えられた「赤子」。それが長い年月の後、DNA鑑定などによって「本当の親子関係」があらわになる。その事によって発生するいろいろな問題。生物学的な親と育ての親の苦悩と「こども」の苦しみ。ただ今回はそれとは違うのは明らかだ。「妻」側に多くの問題がある。それでも判決から違和感を完全に取り去る事は出来ない。

 法律は本来保守的なものだ。そして多くの人間も保守的な存在だ。だから前例主義に陥り新しい考えを取り入れようとしない。世の中にはこうした守旧派で充ち満ちている。が、新しい状況に対応できなければ先にあるのは衰退・滅亡の道である。だが法律見直しがいかに困難であるかは「憲法」問題が示している。先は長い。