【団塊ひとり】文章は難しい、「二番煎じ」に陥る危険性。(今朝の「編集手帳」について)

 先日、珍しく朝日新聞がプロバガンダ的な文章を書かなかったので、「天声人語」を褒めたばかりだが、こんどは雑誌記者時代の山本周五郎氏に関する挿話を紹介している読売新聞の「編集手帳」に小言を言いたい。いつも「天声人語」を上回る良い文章を書いているのに、今朝の「編集手帳」はいつもと様子が違う。約2分の1が2002年4月2日の「編集手帳」の文章と重なっている気がするからだ。比較する。

 便宜上、2002年の「編集手帳」をAとし、今朝の「編集手帳」をBとする。

【書き出し部分】
(A)山本周五郎に若い日の回想がある。雑誌の記者だった当時のこと。レントゲンに関する談話をもらいに,大学教授を訪ねた。
(B)山本周五郎は雑誌の記者をしていた若い頃、レントゲンにまつわる取材で大学教授を訪ねたことがある。  

(A)電話で取材の趣旨を告げてあったのに、「レントゲンとは何のことかね」の一点張りで、らちが明かない。
(B)趣旨は電話で伝えてあったのに、「レントゲンとは何のことかね?」の一点張りでらちが明かない。
【展開部分】
(A)内心の怒りを抑え、放射線を発見した欧州の科学者だと説明した。その教授氏は「何だ,レンチヘンのことか」と言ったそうだ。
(B)表情がこわばるのを抑えて、放射線を発見した科学者だと説明すると、教授はさも軽蔑したように言ったという。「なんだ、レンチヘンのことか」。

【結論部分】
(A)小さな意地悪。会社勤めで神経を消耗させるのは多分、悪人然とした人のどこから見ても理不尽な振る舞いではない。日々ごく普通に起きては消えるレンチヘン式のささいな感情衝突のほうだろう。(B)世間にはときに小さな人間がいて、小さな意地悪を仕掛けてくる。鬱陶しいが、どうしようもない。

 有名作家の逸話を紹介するのだから、文章や構成が似てくるのは仕方が無い。が、200字程度の文章で構成や表現がこれほど似てくると「二番煎じ」の非難を受けかねない。せめて「先輩が感じた10年前の想いは今に生きる私も同じくするものだ」くらいの補足があってもよさそうなものだ。

 もっとも編集子は10年前の「編集手帳」の存在を知らなかったのかも知れない。偶然同じような内容の文章になったのかも知れない。が、もしそうだとしても、結果として「二番煎じ」になってしまっては勉強不足と言われても仕方が無い。短詩型文学である俳句の世界ではたまに似たような作品が生まれることがある。が、それを指摘するのが指導者の役割だ。回りに注意する人はいなかったのだろうか。ネットの世界、特にユーチューブの投稿では、自分の作品がある人の「二番煎じ」であることを明記し、かつ本家に敬意をしめすリンクを張ることも多い。新聞社から見れば吹けば飛ぶようなネットの世界にも義理堅い人間は存在する。

  文章に関してはド素人の私が、プロに偉そうに言うのは、最近NHKを始めとする報道機関に精神的な弛み現象が出ているのではないかと案じるからだ。NHKのニュース番組でも、最近は必ず一度程度の記事内容の訂正が入るのが常態になっている。以前では考えられなかった事だ。

 以前は紅白歌合戦で大物歌手の名前を間違いかけた大物アナウンサーが処分された。NHKのアナウンサーはとちったりしない存在だと、子供心に尊敬していたものだ。が、今はとちっても謝らない。むしろ「人間らしさ」が出て印象が良くなると思っている様子さえ窺える。民放に行くことを前提にしているのか、やたら馴れ馴れしいアナウンサーも目立つ。が、最近は民放にいっても成功が約束される訳では無いようだ。

 こんなことを言う私は、たぶん「小さな意地悪」を仕掛ける「小さな人間」なのだろう。が、「編集手帳」は私が毎日楽しみにしているコラムなので見過ごすことが出来なかった。それだけ期待が大きいのだ。

 「twitter」は本来「さえずり」「興奮」「無駄話」、または「なじる人」などの意味を持つ。だとすれば私の小さな「意地悪」も多少は見過ごしてもらえるのではないか。(今回はツイッターの文章を
多少推敲したものです。)

編集手帳」の全文はhttp://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131227-118-OYTPT01296/list_EDITORIAL%255fNOTEから